Date: 6月 21st, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの
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正しいもの(その20)

オーディオ雑誌でもレコード雑誌でも、昔から録音評というのがある。
つまり演奏と録音をわけての評価である。

けれど、これについては、ずっと以前から、本来おかしいことだ、といっている人もいた。
演奏が平凡でも、録音だけが素晴らしい──、なんてことは本来おかしいことである、と。

ゼルキンのエピソードは、まさにこのことについて語っている。
ゼルキンによるベートーヴェンは、結果として幻のレコードに終ってしまったわけだが、
おそらく、一般的な意味では優秀録音として認められたのではなかろうか。

演奏は素晴らしかったに違いない。
だとしたら、優秀録音といえるのか。

幻のレコードに終ってしまっているのだから、
録音に立ち合った人以外は誰も聴いていない。
おそらく今後も世に出ることはないはずだ。

誰も聴いていない、といえる録音を評価することはできない。
それでもゼルキンが「これはベートーヴェンの音じゃない」といっている以上、
この録音は、もう優秀録音とはいえない。

どんなにピアノの音が素晴らしく録れていようと、
ベートーヴェンの音でない以上、
それはベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音したものとして不出来ということになる。
むしろ本質的なところでゼルキンがダメだししているわけだから、
むしろ失敗ともいえるだろう。

ゼルキンは、だからきっとベートーヴェンの音で演奏していたはずだ。
その音を、日本のレコード会社の録音スタッフは録れなかった。

それは空虚な録音でしかないはずだ。
別項で「毒にも薬にもならない」音(録音も含めて)のことを書いているが、
ゼルキンのエピソードでの録音も、実のところ、
「毒にも薬にもならない」録音なのだろう。

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