想像つかないこともある、ということ(その5)
そう言われてみると、「コンポーネントステレオの世界」’77年度版に試聴風景の写真があるが、
そこには読者は写っていない。
読者の手紙を見開きで紹介しているわけだが、
そこには名前と年齢と職業、それにイラストがあるだけだ。
「読者はいないんだよ」といわれてみて、
たしかに読者が存在していないことは、
見る人がみれば、もしかすると……とわかることだったのかもしれない。
でも当時の私はそんなことはまったく想像していなかった。
そんな私が「読者はいなかったんだよ」をきいて思ったのは、
騙されていた、ではなかった。すごいな、だった。
実在の読者ではなく架空の読者だったことを知った上で読み返してみても、
「コンポーネントステレオの世界」の’77年度版と’78年度版は、
いいスタイルの本に仕上っている、と感じた。
ここに書いたことを読み実在の読者ではなかったことを知り、
騙された、と思う人は、見事に騙されたことに、
騙し方のうまさと、そのために編集部がどれだけのことを考え用意したのかについて考えてもらいたい。
実在の読者が登場して、つまらない記事になるよりも、
架空の読者が登場しておもしろい記事になることを、私だったら望む。
架空の読者を登場されることは、読者を欺いたことにならないのか。
ならない、と私は考える。
実在の読者か架空の読者かといったことは私にとっては、この場合はさほど重要ではない。
重要なのは、架空の読者を登場させてそこでつくられた組合せそのものが、
読者を欺いていないかということだ。