「いい音を身近に」(その19)
「あきらかに、頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた。」
黒田先生は、「そういう経験がこれまでなかった」だけに、びっくりされている。
この時の黒田先生は「疲れをとるためにさまざまなことをしてみた。にもかかわらず、
あいかわらず後頭部がなんとなく重く、身体もだるかった。
疲れはちょっとやそっとのことではぬけそうになかった」ほどに疲労されていた。
音楽を家庭で聴くという行為は、レコードを選ばなければならない、ということで能動的な行為である。
この時の黒田先生は、レコードを選ぶのが億劫だった、と書かれている。
レコードなんて、すぐに選べるではないか。
そう思ってしまえる人と黒田先生とは、レコードの選び方に違いがあるのではないか。
「ミンミン蝉のなき声が……」が載ったステレオサウンドは52号。
1979年9月に出ている。黒田先生は1938年1月1日生れだから、この時41歳。
30代の黒田先生であったら、レコードを選ぶのを億劫がられることもなかったかもしれない。
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ききたいレコードに対しては、どうしても身がまえる。身がまえる──という言葉が正しいかどうかはともかくとして、音楽に対して正座する。正座したいと思う。しかし、場合によっては、関節のあたりがいたくて、正座できないこともある。本当は、正座がしたくともできない状態でも、きいてしまって、結果として正座してしまうのがいいのだろう。これまでは、そうやって、きいてきた。ただ、今回は、それができなかった。
そのために、ふいをつかれて、よろめいて、身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさに気づいた。そうしてそのことは、必然的に、音楽をきくことの微妙さ、むずかしさ、きわどさにかかわる。そうか、疲れれば、ミンミン蝉のなき声しかきけないこともあるのかと、わかりきっていることを、あらためて思った。
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若ければ、「身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさ」に気づくこともないだろう。
けれど人は誰もが歳をとる。
歳をとることで「身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさ」に気づく。
「頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた」ことを、
私も体験している。