「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その6)
(その5)へのfacebookでのコメントがあった。
audio wednesdayの常連Hさんからだった。
哲学者セオドア・グレイシックの「音楽の哲学入門」には、
鳥の鳴き声は音楽か? に対して、
グレイシックは、文化の背景を持たない鳥の鳴き声は音楽ではない、
と答えている、と書いてあった。
「音楽の哲学入門」は読んでいないが、
文化の背景を持たない鳥の鳴き声が音楽ではないとすれば、
放尿の音も、とうぜんそうなる。
ではヨッフムのレクィエムの冒頭の鐘の音は、
教会の鐘であるし、演奏の始まりをつげているのだから、
文化の背景をもっている──、そういえることになる。
グレイシックが間違っている、とはいわないが、
私がここで書いているのは、放尿の音にしても、鐘の音にしても、
録音された音である、ということが前提である。
しかも録音された放尿の音にしても、鐘の音にしても、
オーディオというシステムを介して鳴らすわけである。
窓の外から聞こえてくる鳥の鳴き声は、
グレイシックのいうように音楽ではないとしても、
一度録音され、再生された鳥の鳴き声は、文化の背景を持たないから、といえるのか、である。
録音というプロセスとシステム、再生というプロセスとシステムに、
文化の背景がまったくないと捉える、いや違う、というのか。
それによって音楽とはいえない、音楽といえるというふうになっていくのか。