セッティングとチューニングの境界(その21)
このブログを書き始めたころから、
セッティング、チューニング、エージングがあって、
これらを混同しないようにすべきだ、と書いてきている。
それから、オーディオには三つのingがある、とも書いている。
くり返すが、セッティング(setting)、チューニング(tuning)、エージング(aging)の三つであり、
私は使いこなしという言葉には、この三つを含めての意味で使っている。
(その19)で挙げた例では、
エージングを友人に全面的にまかせてしまっている。
オーディオにおける使いこなしは、単純ではない。
複雑系といっていい。
それゆえに手あたり次第やっていても、悪い意味での堂々巡りに陥ってしまう。
そんな堂々巡りのなかでも音は変っていくのだから、
そこでの一喜一憂はまちがいなくあり、
そこに留まっているだけでも楽しいといえば、そうなるのかもしれない。
だから使いこなしにおいて、
セッティングをまずきちんとやることはとても重要であり、
この部分を信頼できる人にまかせるのはありだ、と私も考える。
(その19)での例では、そうではない。
絶対に人にまかせはいけない(私はそう信じている)ところを、
完全にまかせてしまっている。
まかせる方もまかせられた方も、
ほんとうにオーディオがわかっているのか、
オーディオにおける使いこなしとはどういうことなのかを、
ほんとうにわかっているのか。
わかっていないからこそできることだ。
当人たちは、この話をするときに、どこかうっとりしている。
当人たちにしかわからない友情がそこにはあって、
それを再確認しているからなのかもしれない。
鳴らし込みをまかされた男は、
自分のオーディオの腕にうっとりしているところがある。
それにプラスして、友人にそこまで信頼されている、というところでもそうなのだろう。
はっきりとナルシシストであり、
スピーカーの鳴らし込みをまかせた男は、友人のナルシシズムに陶酔しているのか──。
勝手に私がそう思っているだけなのだが、
そこに気持悪さを感じてしまうし、
スピーカーが、そんな友情(?)ごっこの犠牲になってしまっている気がしてしまう。