アンチテーゼとしての「音」(その16)
汚れることを、ひどく嫌う人がいる。
嫌う、というよりも、どこか怖れているのではないか──、
時にはそう思えるほどに、汚れることを嫌う人がいる。
汚れたら洗えばいいではないか、と私は思ってしまうし、
むしろ汚れまい、とするればするほど、汚れたりするものだ、とも思っている。
それにしても、そこまで汚れることを嫌うのは、なぜなのだろうか。
おもしろいもので、そういう人がオーディオマニアだったりして、
清潔な音を望んでいる。
清潔な音を目指している、清潔な音を出したい(出している)と、
汚れることを極端に嫌う、その男はいっていたことを思い出す。
そういう男の音を、幾度となく聴いている。
清潔な音、わかったようでいて、よくわからないところがある。
どうも、彼の言う清潔な音は、温度感の低い、切れ味のよい音のようでもある。
どこかクールな印象のある音は、キリッとしたところを感じさせる。
それが、どうも清潔な音のようだった。
消毒用のアルコールをふくんだ脱脂綿が肌に触れたような感触が、
清潔ということに結びついての、清潔な音だったのか。
ほんとうのところはよくわからない。
彼自身、よくわかっていたのかどうかもあやしい。
ただ、彼は汚れた音をいっさい出したくなかったのかもしれない。
けれど、そんな音を出そうとすればするほど、
隠れたところが汚れてしまうのかもしれない、と彼は思わなかったようだ。