「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その28)
(その8)に、試聴記は聴いた音の解釈であるべき、と書いた。
試聴記を、聴いた音の印象記ぐらいに思っている人が、どうも多いようだ。
多いからこそ、オーディオ評論なんて、自分にもできる、と思うのではないのか。
しかもいまは簡単に、手軽に情報発信ができるものだから、
印象記にしかすぎない試聴記を、オーディオ評論と勘違いして、公開する人がいる。
だからといって、オーディオ雑誌に載っている試聴記すべてが、
解釈といえるレベルにあるとは思っていない。
音の解釈を書くというとは、
結局は美について書くことだ。
ここでの「美」とは、英語でのbeautyではない。
別項「デコラゆえの陶冶(音楽に在る死)」で書いている。
美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、といわれても、
最初は、なかなか実感はわかなかった。
まず、なぜ羊なのか、と多くの人が思うだろう、私も思った。
大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。
神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。
羊+大としての「美」。
それは英語のbeautyとイコールではない。
柳沢功力氏の試聴記が、そこまでのレベルにある、とはいわないし、思っていない。
それでも柳沢功力氏の試聴記、そして「試聴を終えて」を読めば、
柳沢功力氏なりの音の美について書こうとされていることは感じとれるはずだ。
私は、このブログで、柳沢功力氏のことを柳沢先生とは書いていない。
そんな私でも、柳沢功力氏なりの音の美にこめる想いは読みとれる。
そこに気づかずに、低次元と言い放つ人こそが、実は低次元である。