ECHOES(その2)
“ECHOES”を聴いていて思い出すのは、五味先生の文章だ。
「日本のベートーヴェン」を思い出す。
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カペーによる後期弦楽クヮルテットの復刻盤を聴いて、私がつかんだこれは絶望的な確信だ。絶望の真因を、遠くベートーヴェンの交響曲に見出したというのである。
溝の音を、針で拾うメカニズムは、ステレオもモノーラルもかわりはない。かわったのは驚異的な再生音の高忠実度だが、この進歩はかならずしも演奏(レコードによる)の進歩をもたらしたとは限らない。断っておくが、録音・再生技術が進歩したから、ヴィオラや第二ヴァイオリンの質的低下が鮮明に聴き分けられるというのではない。そんなことはない。むしろ分業的に——音の分離が良くなった賜物で——かえって巧みにすらきこえる。そのくせ、ちっともおもしろくないのは、ジュリアードやプダペスト弦楽四重奏団をステレオで聴いていて気がついたが、緩徐楽章のせいである。アダージョが聴えてこないのだ。
ベートーヴェンの音楽を支えているのは、言うまでもなくアダージョであり、重要なアレグロ楽章においてさえ、その大多数は、よりふかい意味でアダージョの性格に属する基本旋律によっている。これは少しベートーヴェンを聴き込めばわかることである。ところで、もっとも純粋なアダージョとはいかなるものか。しろうと考えだが、その基底をなすものは持続音に違いない。したがって真のアダージョなら、いかにテンポを緩やかにとっても緩やかすぎることはない。音の弛緩が恍惚に変ったのが、アダージョだろう。モーツァルトの場合、アレグロはいかに早く演奏しても早すぎることがないと同様に、ベートーヴェンでアダージョが遅すぎたら、そいつは、下手な演奏にきまっている。ステレオからアダージョが聴えて来なくなったというのは、こういう意味である。
では、こんなことになった理由は、どこにあるか。弦のひびきの違いにある。わかり易く言えば、レコードが再現してくれる弦と管の音の違いによる。
弦楽四重奏曲に管の音がする道理はむろんないが、本当の弦の音を、昔のレコードで聴いたと言える人はいないだろう。むかしは、どうかすればヴァイオリンの高音はラッパかピッコロにきこえたものだ。あの竹針というやつをサウンド・ボックスに付けて鳴らせば、少なくとも松脂がとぶ(弓で弦をこする)生々しい擦音はきこえない。ところでピッコロは、すぐれた奏者の口にかかれば朗々たる余韻を湛えて鳴るが、いつか呼吸がきれてしまう。かならず休止がくる。これに反してヴァイオリンやヴィオラは、弓の端から端まで、弓の上げ下げによって或る旋律を、途切れることなく鳴らしつづけることはできる。
このことから、これはワグナーが言っていることだが、旋律のテンポをゆるやかにとるべきアダージョは、本来管楽器のものなのである。ところが、オーケストラの実際において、均等な強さで音を持続させるのが管楽器では呼吸的に困難のため、作曲者はその代役を弦楽器にさせた。結果、滑稽にも弦楽器奏者たちはわがドイツでは管楽器への均衡をはかって、半強音以外の演奏ができなくなったとワグナーは言う。したがって真のフォルテも、真のピアノも、ドイツのオーケストラは出せなくなったと。
ステレオとモノの弦楽四重奏曲を聴き比べて私の合点したのはここのところである。独断かも知れないが、オーケストラを聴いているわれわれの耳のほうも、いつの間にかドイツのオーケストラに似た過ちを犯してきたのではあるまいか。アダージョがフォルテが鳴らされるためしはない。したがって、それは弦においては嫋々たる旋律につづられる。ところが弱音の持続となれば、弦は管楽器の反響にかなわない。あまたの作曲家のアダージョを聴き慣れたわれわれの耳が、そこで、アダージョになると無意識に管の音をなつかしむ。つまり弦楽四重奏曲においては、ベートーヴェンの場合は特に、再生音の忠実でない弦音のほうにアダージョを聴くのである。
むかしの、と言っても昭和初期にサウンド・ボックスで拾った弦音を聴き込んだ音楽愛好家ほど、クヮルテットに限っては往年の演奏のほうが良かったと口を揃えて言っているのも、あながち、演奏のためばかりではないことがわかる。今の若者たちには見当もつくまいが、われわれはサウンド・ボックスでベートーヴェンの弦楽クヮルテットを聴いた。聴きふけったのである。
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“ECHOES”を聴いていると、
まずサクソフォンが木管楽器だということを思い出す。
そのことを思い出したからこそ、「日本のベートーヴェン」のことを思い出した。
思い出しただけではない。
最近考えていることにも関係している。
オーディオマニアは、美を守っていくべき、ということに、だ。