ハイ・フィデリティ再考(違う意味での原音・その1)
オーディオの世界で原音といえば、
その定義は生の音、もしくはマイクロフォンがとらえた音、マスターテープに記録された音、
さらにはアナログディスクやCDとなって聴き手に提供されるメディアにおさめられた音、
こんなふうになる。
色の世界で原色といえば、辞書には三つの意味が書かれている。
①混合することによって最も広い範囲の色をつくり出せるように選んだ基本的な色。絵の具では赤紫(マゼンダ)・青緑(シアン)・黄,光では赤・緑・青。
②色合いのはっきりした強い色。まじり気のない色。刺激的な,派手な色。
③絵画や写真の複製で,もとの色。
つまりオーディオの世界での原音は、三番目の意味の原色にあたる。
ならば一番目、二番目の意味の原音はあるのだろうか。
あるとしたら、それはどういう音なのだろうか。
例えばUREIの813というモニタースピーカーがある。
ステレオサウンド 46号で、その存在を知った。
UREI 813のスタイルは、少なくとも私には初めて見るスタイルであった。
ウーファーが上に、中高域のユニットが下にあるのはJBLの4311もそうなのだが、
UREI 813は迫力が違った。
音はどうだったのか。
瀬川先生は46号の試聴記の冒頭に、《永いこと忘れかけていた音、実にユニークな音》と書かれている。
そしてこうも書かれている。
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たとえばブラームスのP協のスケールの雄大な独特な人工的な響き。アメリカのスピーカーでしか鳴らすことのできない豪華で華麗な音の饗宴。そしてラヴェル。「パリのアメリカ人」ではなくて「パリジャン・イン・アメリカ」とでも言いたい、まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ。だがそれを不自然と言いきってしまうには、たとえばバッハのV協のフランチェスカッティのヴァイオリンで、自分でヴァイオリンを弾くときのようなあの耳もとで鳴る胴鳴りの生々しさ。このスピーカーにはそうしたリアルな部分がある。アルゲリチのピアノのタッチなど、箱の共鳴音が皆無とはいえず、ユニット自体も中域がかなり張り出していながらも、しかしグランドピアノの打鍵音のビインと伸びきる響きの生々しさに、一種の快感をさえおぼえて思わず口もとがほころんだりする。だが何といっても、クラシックのオーケストラや室内楽を、ことに弦の繊細な美しさを、しみじみ聴こうという気持にはとうていなれない。何しろ音がいかにも楽天的で享楽的であっけらかんとしている。スペンドールの枯淡の境地とはまるで正反対だ。
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《「パリのアメリカ人」ではなくて「パリジャン・イン・アメリカ」》、
《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》、
こういう音は、二番目の意味の原色的原音といえるのではないのか。