ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その10)
マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像という結論をもってしまった私にとって、
スピーカーを選ぶということは、
そして、選んだスピーカーをどう鳴らすかということは、
このことに深く関ってくる。
少なくともマリア・カラスによる「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像とはまったく感じさせない(感じられない)スピーカーを選ぶことは、
この先絶対にない、といえる。
そのスピーカーがどれだけこまかな音を再現しようと、
優れた物理特性を誇っていようと、
オーディオ雑誌においてオーディオ評論家全員が絶賛していようと、
ソーシャルメディアにおいて多くのオーディオマニアが最高のスピーカーと騒いでいようと、
欲しい、とは思わない。
結局、スピーカー選びとは、それまでどういう音楽をどう聴いてきたかである。
マリア・カラスは、私だって聴いてきた──、という人であっても、
私と同じ聴き方、同じような聴き方をしてきたのかどうか。
マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像という聴き方をするほうが少数派なのかもしれない。
多くの人はそんな聴き方はしないのかもしれない。
ハイ・フィデリティとは、音楽に誠実であることだ。
ならば選ぶべきモノはおのずとさだまってくる。
そして、さだまる、ということはさだめへとつながっているようにもおもう。