ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その9)
マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像というのは、私の手前勝手な聴き方ゆえの結論であり、
これが正しいマリア・カラスの「清らかな女神よ」の聴き方であるとか、
そう感じないのは間違っている、などという気はさらさらない。
ただ私には、いまそう聴こえるわけで、
この歳で、そう聴こえてくるという、この結論は、将来、大きく変ることはないように思われる。
「清らかな女神よ」は、いうまでもなく、
ベルリーニのオペラ「ノルマ」のなかのアリアである。
マリア・カラスのために書かれた曲でもない。
第一、作曲の時点でマリア・カラスは生まれていない。
ベルリーニが生きていたころ、マリア・カラスがオペラ歌手として全盛を迎えていて、
ベルリーニが、そのマリア・カラスのための「ノルマ」を作曲した、
「清らかな女神よ」を書いた──、というのであれば、
マリア・カラスにとって、「清らかな女神よ」は自画像といえるのか。
でも、それは自画像というより、肖像画のような気もしなくはない。
肖像画的アリアを、マリア・カラスが歌唱によって自画像といえる域にまで持ってくるのかだろう。
「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)の録音が、
これまでどれだけなされたのかを数えたわけでもないし、すべてを聴いているわけでもない。
マリア・カラスの「清らかな女神よ」が、最高の「清らかな女神よ」なのかは、
そんなわけだから私にはいえない。
私がいいたいのは、「清らかな女神よ」が、マリア・カラスの自画像であるということだ。
黒田先生は、オペラにおいて、
マリア・カラスだけ聴いていればそれでいい、という考え方・聴き方には賛成できないが、
それでも「ノルマ」に関してだけはカラスに尽きる──、
そんなことを、三十年ほど前に書かれていた。
私がこれまで聴いてきたオペラの数は、黒田先生が聴かれてきたのとくらべると、
ほんのわずかといわれてもしかたないくらいである。
なので「ノルマ」に関してだけはカラスに尽きる──、とはいえないが、
「清らかな女神よ」に関してだけはカラスに尽きる、
そういえるのは、「清らかな女神よ」がマリア・カラスの自画像ときこえるからである。
これから先、どれだけの「清らかな女神よ」が演奏されたり、録音されていくことだろう。
そのすべてを聴くことはできない。
それでも、マリア・カラスのように歌える歌手は、もう現れないのではないか。