Date: 1月 29th, 2017
Cate: High Fidelity
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手本のような音を目指すのか(その6)

木曜日に会っていたAさんとの会話に、ある人の音のことが出た。
Bさんとしておこう。

Aさんも私もBさんの音を聴いている。
一緒にではなく、別の機会にである。

Aさんと知りあったばかりのころだったか、
AさんにBさんの音のことをきかれて、「時計の音が気になった」と答えたことがある。
もう十年くらい前の話だ。

Aさんは、その話を憶えていて、木曜日に、そのことが会話に出た。
そういえば、確かにそう話した。
話した本人も忘れかけていたことを憶い出せてくれた。

Bさんは、私が伺ったときは、別のスピーカーを鳴らされていた。
その後、(その5)で書いている世評の高いスピーカーにされている。
その音は、私は聴いていない。

私が時計が気になったのは、以前のスピーカーでのことではあるが、
おそらくスピーカーを入れ替え後であっても、同じように時計の音が気になったであろう。

時計の秒針が動く音。
規則正しくカチッ、カチッ、と動く音が、どちらかといえば苦手だ。
かすかな音であっても、何かの拍子に気になると、ひどく耳障りに感じる。

この時計の音が気になる音とそうでない音とがあるように感じている。
Bさんの音は、はっきりと、私にとっては時計の音が気になるものだった。

時計がリスニングルームにあって、秒針の音がしていても気にならないこともある。
そういう音と、秒針の音が気になる音とは、私にとっては大きな違いのある音だ。

これは「「音楽性」とは(映画性というだろうか)」で書こうとしていることにも関係してきそうだ。
つまり記録のような音と記憶のような音、
この違いが、秒針の音が気になり、気にならないにつながっていくようなきがしている。

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