「音は人なり」を、いまいちど考える(その3)
愚かな音、醜い音を出すことは、
それも意図的に出すことはできるのだろうか。
意図せずに、そのオーディオの聴き手である己の愚かさや醜さが音として出てしまうことはあるだろう。
でも、それすらも、オーディオとのつき合いが長く、
それなりに使いこなしのテクニック、スキルを身につけてしまうと、
表面的には覆い隠してしまうことはできる。
意図せずに表面化してしまった愚かさや醜さを感じさせる音を、
いわゆる悪い音と判断してしまえば、それをどうにかすることはできないわけではない。
意図せずに出てきてしまった、そういう音だけに聴き手の意識としては、
悪い音、ひどい音と判断してしまう。
そういう音はどうにかしたい、ということになる。
だからこそ、意図的に愚かな音、醜い音を出すことができるのだろうか──、
と考えている。
性能の低いオーディオ機器を集めて組み合わせたところで、
そんな音が出るわけではない。それは悪い音、ひどい音である。
そうではなく、いまのメインのシステムから、愚かな音、醜い音を出さなければならない。
となると、何が愚かな音なのか、醜い音なのかをはっきりと把握しなければならない。
そうすることで、美しい音も、またはっきりと姿をあらわしてくれそうな気がする。