音の毒(オイロダインのこと・その3)
音の毒、そんなものまったく不要だし、
そんなもの求めていないし、害だけだろ! という意見もあるだろう。
音の毒といっても、そこに美がなければ、何の意味もない。
よく「毒にも薬にもならない」という。
音でも、そういえることがある。
毒にも薬にもならない音。そんな音があるのも事実だし、
そういう音を好む人、それをいい音と感じる人も、またいる。
毒にも薬にもならない音について、以前、別項でも書いている。
毒にも薬にもならない音もあれば、毒にも薬にもならない音楽(演奏)も、
やはり世の中にはある。ゴマンとあるといってもいいだろう。
結局、どちらにしても大事なのは、美がそこにあるかどうかのはずだ。
毒にも薬にもならない音であっても、
むしろ、そういう音だからこそ、美を感じる人もいることだろうし、
音の毒を求める私でも、ただ単に毒だけの音、美が存在しない毒まみれの音は、
聴くに耐えない音でしかないし、おどろおどろしいだけにしかすぎない。
ここまで書いてきて、ふとポリーニのことを思い出した。
ポリーニの演奏とは、いったいなんだったのか、と最近、ふと考えることがある。
五味先生は、ポリーニのベートーヴェン(旧録音)に激怒されていた。
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ポリーニは売れっ子のショパン弾きで、ショパンはまずまずだったし、来日リサイタルで彼の弾いたベートーヴェンをどこかの新聞批評で褒めていたのを読んだ記憶があり、それで買ったものらしいが、聴いて怒髪天を衝くイキドオリを覚えたねえ。近ごろこんなに腹の立った演奏はない。作品一一一は、いうまでもなくベートーヴェン最後のピアノ・ソナタで、もうピアノで語るべきことは語りつくした。ベートーヴェンはそういわんばかりに以後、バガテルのような小品や変奏曲しか書いていない。作品一〇六からこの一一一にいたるソナタ四曲を、バッハの平均律クラヴィーア曲が旧約聖書なら、これはまさに新約聖書だと絶賛した人がいるほどの名品。それをポリーニはまことに気障っぽく、いやらしいソナタにしている。たいがい下手くそな日本人ピアニストの作品一一一も私は聴いてきたが、このポリーニほど精神の堕落した演奏には出合ったことがない。ショパンをいかに無難に弾きこなそうと、断言する、ベートーヴェンをこんなに汚してしまうようではマウリッツォ・ポリーニは、駄目だ。こんなベートーヴェンを褒める批評家がよくいたものだ。
(「いい音いい音楽」より)
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私には、五味先生がそこまで激怒される理由が、はっきりとは聴きとれなかった。
それでも十数年前に、ポリーニのバッハの平均律クラヴィーア曲集を聴いて、
音が濁っている、と感じた。
音が濁っている、といっても、オーディオ的な意味、録音が濁っているではない。
ポリーニの平均律クラヴィーア曲集の録音は、2008年9月、2009年2月である。
優秀な録音といえる。
なのにひどく濁っているように感じてしまった。
五味先生の《汚してしまう》とは違うのかもしれないが、
五味先生の激怒の理由は、こういうことなのかもしれない、とも感じていたわけだが、
それではオイロダインでポリーニの弾くベートーヴェンやバッハを聴いてみたら、
いまの私は、どう感じるのだろうか。