「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その19)
オーディオは、つまるところ感動の再現ではないのか。
いや、生音の再現、原音とおもわれるものの再現という人もいようが、
私は、ここにきて、感動の再現だ、とつくづくおもう。
別項でメリディアンのULTRA DACについて書いているのも、
その理由のひとつ、もっとも大きな理由は、私にとってULTRA DACが、
私が聴きえた範囲では最も感動の再現に近いD/Aコンバーターだからだ。
ULTRA DACよりも、いい音のD/Aコンバーターはある、という人がいる。
あるだろう、とは思っている。
ULTRA DACよりもはるかに高価なD/Aコンバーターはいくつかあるし、
それらとULTRA DACを比較試聴しているわけではないが、
ULTRA DACよりも、一般的にいわれている精度の高い音に関しては、
それらのD/Aコンバーターの方が上だろう。
プログラムソースに含まれている信号の波形再現こそが、最終的なことであるならば、
歪がなくノイズもなく、プログラムソースに記録された信号を、それこそ純粋な形で信号処理して──、
そういうプロセスを感じさせる音、いわゆる精度の高い音こそが正しい──、
そう力説されれば、確かにそれは技術的には正しい、といわざるをえない。
けれど、われわれが音楽を聴くのは家庭において、である。
録音スタジオでもないし、コンサートホールでもない。
音量ひとつとっても、録音の場で鳴っている音とは違う。
これは重要なことだ。
スピーカーもアンプもなにもかも違う条件で、われわれは録音された音楽を再生して聴いている。
そこにおいて、もっとも大事にしたいことはなんなのか。
音楽が美しく響いてくれることであり、
そして感動の再現である。
波形再現の精度をどこまでも追求するのを否定はしない。
けっこうなことだ。
そういう時期は、私にもあった。
けれど、いまはもう違う。
自分に正直になろうとすればするほど、そこからは離れていくような気がする。