「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その18)
十年ほど前からか、KYという略語が流行り出した。
空気を読め、空気が読めない、という意味で使われていた。
誰がいい出したのか、
どうして、こんな略語が流行ったのか。
研究している人はいるのだろうが、
私は、これも「私を不快にさせるな」というところから来ているように感じている。
よかれ、と思って言ったことが、相手を不快にさせることはある。
わたしなんて、しょっちゅうといえるほうだろう。
八年前もあった。
あきらかにおかしな音を聴かされた。
25年のつきあいのある男の音だった。
そのことをやんわりと指摘した。
そのくらい、おかしな音(間違っている音)だったからだ。
彼の出す音は、バランスを欠いた音である。
そのことはわかっていても、その時の音は、バランスのおかしさという範囲を逸脱した音だった。
でも、その音は彼にとって自慢の音だったようで、
彼とのつきあいはそれっきりである。
彼にしてみれば、「私を不快にさせるな」もくしは「私を不快にさせやがって」なのだろう。
それは彼の自尊心を傷つけた(無視した)からなのか。
いまとなってはどうでもいいことなのだが、
それにもかかわらず、こんなことを書いているのは、
時として不快な気持になる誰かの言動は、
己が本当に正直なのか、という確認につながっていくようにも、私は思っている。
本当に私は正直なのか、音楽の聴き手として、
オーディオマニアとして正直なのか、という確認作業は、とても大事なことである。