フルトヴェングラーのことば(その2)
フルトヴェングラーが1929年に発表した「指揮の諸問題」に、こう書いてある。
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アメリカ的な様式に見られるオーケストラ崇拝、総じて素材的な面における楽器崇拝は、現在の技術的な思考方式に即応している。「楽器」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽が楽器のために存在するようになる。「ハンマーになるか、鉄敷(かなしき)になるか」の言葉が、ここにもまた当てはまる。それによってすべての関係が逆になる。そしていまや、アメリカから私たちに「模範的」なものとして呈示される、あの技術的に「無味乾燥な」演奏の理想が姿を見せるようになる。それはオーケストラ演奏においては均整のとれた、洗練された音色美を通して顕示され、この音色美は決して一定の限度を越えることなく、楽器それ自体の音色美という一種の客観的な理想を追うのである。ところで作曲家の意図は、このように「美しく」響くということになるのだろうか。むしろ、このようなオーケストラや指揮者によって、ベートーヴェンの律動的・運動的な力ならびに音の端正さがまったく損われてしまうことは明らかである。
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「指揮の諸問題」なのだが、現在のオーディオの諸問題にも読める。
この「指揮の諸問題」の初めのほうには、こうも書かれている。
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芸術における技術的なものの意義、それは以前の、非合理性に傾いていた時代には過小評価されがちであったが、今日ではむしろ過大評価されている。
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これはある種のスポーツ化ともいえるような気がしてくる。
より高度な技を、より精度高く演じていくことで、
現代の、たとえば体操、フィギュアスケートは高得点を得られるのではないのか。
それはそれで、凄いことではあるけれど、ずっと以前とは違ったものになりつつあるようにも感じる。
スポーツも演奏も、どちらも肉体を駆使しての結果であるのだから──、
という考え方は成り立つのだろうが、それでも「違う」といいたくなる。
「指揮の諸問題」はいまから90年前に書かれている。
それをいま読んで、オーディオにあてはめている。
《「楽器」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽が楽器のために存在するようになる。》
楽器をスピーカーにおきかえれば、
《「スピーカー」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽がスピーカーのために存在するようになる。》
となる。
《「美しく」響くということになるのだろうか》は、
いまならば
《「スマートに」響くということになるのだろうか》だ。