いい音、よい音(その7)
ステレオサウンド 49号に、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」という対談の最終回が載っている。
菅野先生と保柳 健氏の対談である。
47号、48号、49号の三回にわたっての、この対談は復刻されないのだろうか。
ステレオサウンドは、バックナンバーから記事をまとめたムックを、
わりと積極的に出している。
けれど、録音と再生に関する、この手のムックは出していない。
あまり売れないから──、というのがその理由なのかもしれないが……。
このことについて書いていくと、また脱線してしまうので、このへんにしておく。
49号で、菅野先生が、こう語られている。
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菅野 一つ難しい問題として考えているのはですね、機械の性能が数十年の間に、たいへん変ってきた。数十年前の機械では、物理的な意味で、いい音を出し得なかったわけです。ですがね、美的な意味では、充分いい音を出してきたわけです。要するに、自動ピアノでですよ、現実によく調整されたピアノを今の技術で録音して、プレイバックして、すばらしいということに対して、非常に大きな抵抗を感ずるということてす。
ある時、アメリカの金持ちの家に行って、ゴドウスキイや、バハマン、それにコルトーの演奏を自動ピアノで、ベーゼンドルファー・インペリアルで、目の前で、間違いなくすばらしい名器が奏でるのを聴かしてもらいました。
彼が、「どうですか」と、得意そうにいうので、私は、ゴドウスキイやバハマン、コルトーのSPレコードの方が、はるかによろしい、私には楽しめるといったわけです。
すると、お前はオーディオ屋だろう、あんな物理特性の悪いレコードをいいというのはおかしい、というんですね。そこで、あなた、それは間違いだと、果てしない議論が始まったわけです。つまり、いい音という意味は、非常に単純に捉えられがちであって……。
*
49号は1978年12月にでている。
もう四十年以上前なのだが、このことは、いまもそのままあてはまる、と感じている。
アメリカの金持ちは、オーディオマニアなのかどうかははっきりしないが、
そうではないような感じで、読んでいた。
けれど、少なからぬ数のオーディオマニアと接してきて感じているのは、
オーディオマニアのなかにも、このアメリカの金持ちと同じ感覚の人が、
けっこういる、ということである。