ベートーヴェンの「第九」(その24)
作曲家は、演奏家は、客を求めているのか、
それとも聴き手を求めているのか。
どんな素晴らしい曲をつくっても、
どんなに素晴らしい演奏をおこなっても、
慈善事業ではないのだから、お金が入ってこなければ、
作曲活動も演奏活動もつづけていくことは無理である。
必要なのは、客といってもいいだろう。
(その20)で書いた人たちは、その意味では客である。
少なくとも、ベートーヴェンの音楽の聴き手とは、とうてい思えない。
もちろん、この人たち自身はそんなふうに微塵も思ってないだろう。
思っていたら、(その20)で書いたようなことを言葉にできるわけがない。
(その23)で書いた受刑者は、ベートーヴェンの音楽の客ではなかった。
ベートーヴェンの「第九」を聴くのに、一銭も払っていないのだから。
それでも、ベートーヴェンの音楽の聴き手ではあった。
音楽の客と音楽の聴き手の違いは、聴き手の必然性だろう。
ベートーヴェンを聴く必然性が、音楽の客にはない。
必然性──、そんなものが聴き手に必要なのか、と思う人もいようが、
少なくとも、私はベートーヴェンの音楽には絶対に必要と考える。