ベートーヴェンの「第九」(その23)
(その10)で書いたことを、またおもいだす。
「第九」を聴いて号泣した受刑者は、
ベートーヴェンの「第九」を待っていたのだろうか、と。
コンサート会場に足を運ぶ人、
スピーカーの前にすわっている人、
どちらも音楽が鳴ってくるのを待っている、といえる。
もっといえば芸術作品を望んでいる、といえる。
そして、どちらも客といえる。
コンサートに行くにはチケットを買う必要がある。
スピーカーの前にすわっている人も、
音楽を聴くためにはレコード(録音物)を買う必要がある。
どちらも音楽家にとって客である。
「第九」を聴いて号泣した受刑者はどうだろうか。
客ではない。
「第九」を聴いていたら、罪を犯しはしなかっただろう……、と、
その記事にはあったと記憶している。
「第九」を、だから待っていた人でもない。
知らなかったようにも思える。
コンサート会場にいる人とも、スピーカーの前にいる人とも違う。
一般社会とは隔絶された空間で、刑務官にうながされてスピーカーの前にいたはずだ。
「第九」を聴きたいとは思っていなかった人である。
音楽の聴き手としてスピーカーの前にいたわけではなかった。
そういう人の前で「第九」は鳴ったのだ。