ベートーヴェンの「第九」(その10)
思い出したことがある。
なにかきっかけがあって思い出した、ともいえない感じで、あっそうだった、という感じで思い出した。
いつだったのかは正確にもう憶えていないくらい、以前のことだ。
おそらく1970年代終りから1980年ごろにかけてだった。
朝日新聞の天声人語(だったと思う、これも記憶違いかもしれない)に、
ベートーヴェンの「第九」に関することが書かれていたことがあった。
とある刑務所で、
受刑者に年末ということでベートーヴェンの「第九」を聴かせた、という話だった。
受刑者のひとりが「第九」を聴いて、号泣した、と。
「第九」を聴いていたら、罪を犯しはしなかっただろう……、と。
日本では年末に「第九」がいたるところで演奏される。
いつごろからそうなったのかは知らない。
私が「第九」を意識するようになったころには、すでにそうだった。
「第九」に涙した受刑者が、どれだけそこにいるのかはわからないし、いくつなのかも知らない。
彼がそこに入る前から「第九」は年末に演奏されていたようにも思える。
断片は耳にしたことはあったのだろう。
でも、それはベートーヴェンの交響曲第九番の断片としてではなく、
彼の耳に入っていたのかもしれない。音楽として意識されることなく消え去ったのかもしれない。
すくなくとも世間から隔離された場所で、彼ははじめて「第九」を聴いた。
街をあるけば、いたるところでBGMとして「第九」は流れているのに、だ。