Date: 12月 9th, 2017
Cate: マーラー
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マーラーの第九(Heart of Darkness・その5)

12月のaudio wednesdayで、ショルティ/シカゴ交響楽団によるマーラーの二番を、
かなりの大音量で鳴らした。

瑕疵のまったくない音ではなかった。
人によっては、聴くに耐えぬ音と思うかもしれない。
それでもマーラーの音楽の本質は出していたと言い切れるし、
ショルティの演奏の本質についても、同じことをいう。

瑕疵がまったくない音を聴きたいわけではない。
私が心の中で描くマーラーの「音」を聴きたいのである。

二番は一楽章だけを鳴らした。
全楽章鳴らしたい気持はあったけれど、マーラーを聴くことがテーマだったわけでもないから、
一楽章だけでがまんした。

これが水曜日の夜のことだ。
それから今日まで、頭のなかで何度も、二番のフレーズがリフレインしている。
その度に、マーラーという男は、どこか狂っている、と思う。

この旋律から、なぜ、こういう展開になっていくのか。
何度も聴いている曲とはいえ、あらためてマーラーという男の頭の中は、
いったいどうなっているのか、覗けるものなら覗いてみたいと思うほどに、
強烈な展開をしていく。

聴き終って、五味先生の文章を思い出してもいた。
     *
 ところでマーラーの愛情にはウェーバー夫人も充分こたえた。知られていることだがウェーバーの未完の遺作『三つのピント』は、このときのマーラーと夫人との協力で完成された。(もっとも、どう見てもウェーバーのものではなく、マーラーの音楽で、なんといってもつぎはぎ細工の域を出ず、舞台にのせられる代物ではなかったと、アルマは書いている)この仕事にたずさわったことがしだいに二人を燃えあがらせ、ついに駆落ちを決意させる。アルマは書くのだ——「夫人に対するマーラーの愛はきわめて深かったが、最後の一歩をふみ出すことへの恐怖もそれにおとらず強かった。彼は一文無しだったし親兄弟を養わねばならぬ身だった、というわけで——彼の話によれば——マーラーと一緒に逃げるつもりでいた夫人を乗せずに汽車がすべり出したとき、彼は深い安堵の溜息をついたのだ!」——この記述がどれほど真実をつたえているかは怪しい。アルマと結婚するとき、「おれは年をとりすぎていないか?」とマーラーは自問し苦悩した。このときのマーラーは四十男だ。それが二十歳年下の女性と結婚して、思い出話に夫人との恋を語ったのである。四十男の述懐である、わずかにアルマの軽妙な筆致のおかげで、ユーモアの感じられるのがマーラーのためにも救いだろう。有体に言えば、二十八歳のそれも「禁欲者マーラー」(アルマ)が人妻と恋におち、駆落ちを決意した。その相手が駅に現われなくてホッとなどするわけがない。大袈裟に言えば絶望したにちがいない、おのれの人生に。貧しいということに。たいへん大胆な言い方をすれば、だが、そういう夫人との恋だったから〝巨人〟はあの程度の作品にとどまった。つまり大して傑作にはならなかった。真にマーラーの才能にふさわしい相手が夫人だったら、駆落ちは実行されたろう。〝巨人〟はもっと燃焼度の高い傑作になったろう。その代り、マーラーのその後の人生は変っていたろう。
〝巨人〟を聴くたびに私はそう思う。人生の出会いの重みを考える。天才に運命はない、というのが私の持論だが、マーラーほどの天才にしてウェーバー夫人との出会い、アルマとの結婚がその創作とわかちがたく結びついていること、個々の才能を超えた何ものかの摂理のもとに吾人はまだ在ることを、おもわざるを得ない。フルトヴェングラーを私は熱愛してやまないが、フルトヴェングラーの十七歳の写真がある、髭をはやし、長髪で、今のヒッピースタイルの若者と異らぬ風貌ながら、実にいい顔をした写真だ。(カルラ・ヘッカー女史の『フルトヴェングラーとの対話』—音楽之友社刊—に掲載されているから見た人も多いとおもう)私はこの写真を眺める度に、この若者ハインリッヒ・グスタフ・エルンスト・マルティーン・ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが、今世紀最大の指揮者となり、ぼくらのフルトヴェングラーとして死んでいった六十八年の歳月を考えるのだ。いろいろなことがフルトヴェングラーにはあったし、指揮者としての彼の偉大さは、とりもなおさず作曲家であることのおかげで、「もし作曲家の立場がなかったらフルトヴェングラーは、その指揮する傑作の深奥にまで入りきることはできなかったろう」とフランク・ティースがフルトヴェングラーの書翰集を編んだ序文で書いているが、生前フルトヴェングラーと親しかったある人に言わせると、あれほど厳粛な感動を味わせてくれたぼくらの指揮者も、女性問題には至ってだらしがなかったそうだ。
 いろいろなことが人にはあるのだ。歳月がそれを浄化し、時に消去してくれる。マーラーが人妻と何をしようと、結局、マーラーの人生を語るのは彼の作品で、〝巨人〟はマーラーのものとしてはつまらない、と私は言いきる。〝巨人〟の擱筆ののちでなければ〝闇〟ははじまらないと。
(「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」より)
     *
第二番から、マーラーの〝闇〟は始まっている、と。

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