Date: 7月 23rd, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する
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「芋粥」再読(オリンピックが始まった)

ちょうど、いまオリンピックの開会式をやっているところだな、
と思いながら書いている。

テレビのない生活をずっとしているから、
オリンピックも見る機会は、まったくといっていいほどない。

最後に、リアルタイムでオリンピックをテレビで見た記憶は、
1988年の男子100m走の決勝だった。
そのころはステレオサウンドに勤めていたから、
みなで仕事中にもかかわらずテレビを囲んで見ていた。

そんな私でも実家に住んでいたころは、オリンピックは大きな楽しみだった。
コマネチが登場した時は、学校に行けば、コマネチの話題で持ち切りだった。
みな昂奮していた。

そのオリンピックが終る。
昂奮も薄れてきたころに、アサヒグラフ、毎日グラフといった写真誌が、
オリンピックの特集号を出す。

ここで、また昂奮がよみがえってくる。
しかもテレビでは見れなかった競技の写真も、そこにはあるから、
オリンピックの余韻は、ここまで持続するだけでなく、少しだけといえ新たな昂奮もある。

それがいまはねぇ……、と書くわけではない。
二十年以上、見ていないのだから、書こうとは思っていない。

ただ、四年ほど前にも書いたことのくり返しなのだが、
そういった余韻が、いまの時代はほんとうに短い。

開幕までにこれだけごたごたのあった東京オリンピックでも、
閉会式を迎えてしまえば、さっと余韻も霧散してしまうことだろう。

こんなことを書いているからといって、
いまの私は余韻を充分に味わっているのかというと、
TIDALで音楽を聴く時間が長くなるにつれて、
あのころとは音楽の余韻の味わい方も、
知らず知らずのうちに変っていったことを感じている。

オリンピックを熱心に見ていたころは、聴きたいレコードをほいほい買えたわけではない。
聴きたくとも買えなかったレコードのほうが、多い。

一枚のレコードを、くり返し聴いた。
そうやって得られた余韻と、TIDALで聴いての余韻は、同じとはいえない。

TIDALで聴こうが、レコードで聴こうが、ようするにこちらの聴き方の問題であって、
TIDALに問題があるわけではないことはわかっている。

TIDALでは、どちらかといえは、まだ聴いたことのない人の演奏を聴く。
そうやって聴き続けたあとに、ふと往年の演奏家を聴く。

フルトヴェングラーでもいい、カザルスでもいい、グールドでもいい。
そういった人たちの演奏を聴くと、たしかに余韻があるのに気づく。

その余韻を聴き終って、楽しんでいることに気づく。

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