2021年ショウ雑感(その14)
最近、頭に浮んでくる五味先生の文章は、
「フランク《オルガン六曲集》」のなかの一節だ。
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私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
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五年半ほど前、別項でも引用した。
そこでは、SNSで見受けられる、
ここに書かれているオーディオマニアとは真逆の人たちのことをとりあげた。
インターネットの普及が、
自説を主張するだけの我欲のかたまりのような人たちの存在を顕にしただけなのか。
それともインターネットがおよぼす悪影響によって、こういう人たちが生れてきたのか。
さいわいなことに、私の周りにいるオーディオマニアに、そんな我欲のかたまりの人たちはいない。
けれど、インターネットには、そういう人たちをすぐに見つけることができる。
オーディオ雑誌の売買欄をなくせ、と出版社に難癖をつけた販売店も、
こういう人たちと同じであろう。
我欲のかたまりの人たちだと、私は思っている。
《知られざるオーディオ愛好家の美点》は、いまでは珍しくなってしまったのか。
ただ単に、我欲のかたまりの人たちが目立っているだけのことと思いたいのだが、
結局、我欲のかたまりの人たちは、オーディオにどれだけお金と時間を注ぎ込んでいたところで、
音楽を聴いていないのではないだろうか。
《音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される》ことが、
これまでまったくなかったのか、
それともいつのまにか失ってしまったのか。