続・再生音とは……(その29)
瀬川先生がずっと以前話されたことを憶い出しながら書いている。
美味しいものを食べれば、舌の存在を意識する。
美味しいものを食べて、ほどよく満腹になれば、胃の存在を意識する。
空腹だったり食べ過ぎてしまっても胃の存在は意識するわけだが、
これは、悪い音を意識するのと同じことである。
人間の身体は不具合があっても存在を意識するが、
快感を感じても意識するようになっている。
瀬川先生はさらに、臍下三寸にあるものもそうだと話された。
臍下三寸にあるもの、つまりは性器である。
ここが快感を感じることは、そういう行為に及んでいるときである。
快感を感じている部位の存在を意識しない、という人がいるだろうか。
ならば、ほんとうに「いい音」とは、スピーカーの存在を意識することではないだろうか。
もちろん悪い音で意識するのとは反対の意味での意識である。
だから存在を感じさせない音は、まだまだだと考えられる、ともいわれた。
このことは別項「老いとオーディオ(その5)」でも触れている。
そこで最後に書いたことを、くり返しておく。
瀬川先生は、いい音とは、について考え続けられていた。
いい音とはなにか、について考えられてきたからこそ、こういう例えをされたのだと私は受けとめ理解している。
それにオーディオを介して音・音楽を聴くという行為は、どこかに官能的な要素がある、
と思われていたのではないだろうか。