続・再生音とは……(その28)
再生音らしさ、とは、いいかえればオーディオらしさ、となるのだろうか。
よく「スピーカーの存在が消える」という表現が使われる。
インターナショナルオーディオショウでも、いくつかのブースで聞いた。
「スピーカーの存在が」というが、
オーディオの存在が消えるて、そこには音楽だけがある、というのが、
オーディオの理想として語られることが、ほんとうに増えてきた。
耳につく音がスピーカーから出ていれば、
スピーカーの存在を意識してしまう。
オーディオではなく身体にあてはめてみよう。
健康なときは、特に体の部位を意識することはない。
どこかに痛みを感じたら、その部位の存在を意識する。
頭痛がすれば頭を、腰痛であれば腰を……、といったようにだ。
健康とはいえない状態であるから、存在を意識する。
痛みでなくとも不快さや疲れを感じても同じである。
身体が健康であれば、どこにも不具合がなければ、
身体の部位を意識することはない。
存在を意識しないわけで、その意味では「スピーカーの存在が消える」は、
健康状態を目指すのと同じことともいえる。
けれどいっておきたいのは、「スピーカーの存在が消える」、
「オーディオの存在が消えるの」のは、ほんとうに理想といえるのだろうか。
ここを目指すのはいいが、
ここに留まってしまうのは思考停止としか思えない。
人間の身体は、会館を感じたときにも、その存在を意識するからだ。