老いとオーディオ(その5)
美味しいものを食べたとしよう。
この幸福感をまず感じているのは舌であり、このとき舌の存在を意識する。
空腹の時、胃の存在を意識する。
美味しいものをたらふく食べたあと、満腹感で胃の存在を意識する。
瀬川先生は、こういう例えもされた。
われわれには臍下三寸にあるもので、快感を感じる。
その時に、ふだんはあまり意識することのない、臍下三寸にあるものの存在を意識する。
快感、幸福感を味わっている、満たされている時にも、存在を意識するわけだから、
ほんとうにいい音というのは、装置の存在を意識するのではないだろうか。
そういう趣旨のことを話された。
いうまでもなく臍下三寸にあるものとは、いわゆる性器である。
この部分が快感を感じるときといえば、そういう行為に及んでいるときである。
この話をすると、瀬川先生のイメージと異る、といった感じの顔をする人がいる。
だが、そうだろうか。
瀬川先生は、いい音とは、について考え続けられていた。
いい音とはなにか、について考えられてきたからこそ、こういう例えをされたのだと私は受けとめ理解している。
それにオーディオを介して音・音楽を聴くという行為は、どこかに官能的な要素がある、
と思われていたのではないだろうか。