老いとオーディオ(その6)
つづけて思い出したのは、
「虚構世界の狩人」におさめられている「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論」に出てくる。
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ブランデー・グラスについてはひとつの理想があって、それはしかし空想の中のものではなく、実際に手にしながら逃してしまった体験がある。もう十年近い昔になるだろうか。銀座のある店で何気なく手にとった大ぶりのブランデー・グラス。その感触が、まるで豊かに熟れた乳房そっくりで、思わずどきっとして頬に血が上った。乱暴に扱ったら粉々に砕けてしまいそうに脆い薄手のガラスでありながら、怖ろしいほど軽く柔らかく、しかも豊かに官能的な肌ざわりだった。あんなすばらしいグラスはめったに無いものであることは今にして思い知るのだが、それよりも、当時、一個六千円のグラスはわたくしには買えなかった。ああいうとりすました店で一個だけ売ってくれは、いまなら言えるが、懐中が乏しいときにはかえって言い出せないものである。いまでもあの感触は、まるで手のひらに張りついたように記憶に残っている。
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このブランデー・グラスがどういうものであったかは、もう想像するしかない。
形・大きさを想像し、感触を想像する。
その官能的な肌ざわりを想像する。
この文章を読んだのが先だったか、
臍下三寸の話をきいたのが先だったのか、もうはっきりとはおぼえていないが、ほぼ同時期のことだった。
オーディオを趣味とする人のあいだでは、ストイックであること、
ストイックな音を出すことが、カッコよさみたいなところが以前からあった。
いまもあるように感じている。
ストイックな音が悪いわけではない。
ただストイックな音を、より上位におこうとしている人がいることがおかしいといいたいだけである。