オーディオの「介在」こそ(その12)
外部クロックが話題になりはじめたころだから、
もう十数年以上の前のことになる。
クロックの精度が上るほどに音の透明度が良くなる──、
どのオーディオ雑誌でも、どのオーディオ評論家でも、概ねそのようなことをいっていた。
音の透明度とは、音楽と聴き手のあいだにあるガラスに例えられてもいた。
クロックの精度が上っていくと、ガラスの透明度が増していく。
もうガラスの存在はなくなったかのように感じても、
さらに高精度のクロックを接続すると、
それまで、これ以上はないと思っていた透明度、
つまりガラスの存在を意識させなかった音が、
実はまだまだガラスの透明度は完全ではなかったことが感じとれるようになる。
理想は、もちろんガラスの存在を意識しないのではなく、
ガラスの存在がなくなること、のはずである。
それはスピーカーの存在が完全になくなってしまうこと、
アンプやCDプレーヤーの存在も完全になくなってしまうことを意味するのだとしたら、
私は、そこに一言いいたくなる何かを感じていた。
別項「続・再生音とは……(その29)」で書いていることが、ずっと頭にあるからだ。
瀬川先生が、熊本のオーディオ店で話されたことだ。
美味しいものを食べれば、舌の存在を意識する。
美味しいものを食べて、ほどよく満腹になれば、胃の存在を意識する。
空腹だったり食べ過ぎてしまっても胃の存在は意識するわけだが、
これは、悪い音を意識するのと同じことである。
人間の身体は不具合があっても存在を意識するが、
快感を感じても意識するようになっている。
瀬川先生はさらに、臍下三寸にあるものもそうだと話された。
臍下三寸にあるもの、つまりは性器である。
快感を感じている部位の存在を意識しない、という人がいるだろうか。
ならば、ほんとうに「いい音」とは、おもにスピーカーの存在、
さらにオーディオ全体の存在を意識することではないだろうか。
もちろん悪い音で意識するのとは反対の意味での意識である。
だから存在を感じさせない音は、
健康であるという意味であって、その先がまだあると考えられる──、
ということだった。
そのことがずっとあったからこそ、
ガラスの例えは、瀬川先生のいうところの健康な状態であって、
その先があるはずだ、
なぜ、誰もそこの領域に行こうとしないのか、と思っていた。