オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・余談)
週刊文春は毎号買っている。1ヵ月分たまったところでまとめて資源回収日に出すことにしている。
で、その前にパラパラとページをめくり、読み落としているところがないか、軽くチェックする。
6月2日号の書評(文春図書館)のページ「筆者は語る」に、
「アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップポップまで」の大和田俊之氏が登場されている。
そこには、世界的にみて珍しいこととして、
日本の年配世代はマニアックに自分の好きなジャンルの音楽を聴いてきた人が多く、
一方で、今の学生は、「泣きたいから」「躍りたいから」といった機能的な理由で、音楽を聴いている、とあった。
年配世代ははっきりと好きな音楽のジャンルがあり、今の学生はジャンルにとらわれず、
音楽を楽しんでいるということ、だそうだ。
大和田氏は1970年生れ、とあるから、年配世代と今の学生のあいだにいる世代ということになるのか。
「アメリカ音楽史」は、今日知ったばかりだから未読だが、
今の学生の機能的な音楽の聴き方、という指摘には、あれこれ考えさせられる。
私の周りに、「今の学生」はいないから自分で確かめようはないが、
大和田氏の指摘通りと仮定すれば、今の学生は機能的な理由で音楽を聴くわけだから、
聴く手段も機能的で、選択しているのかに、興味がわいてくる。
「躍りたいから」躍れる音楽を、躍れる場所(クラブ)で聴く、
「泣きたいから」泣ける音楽を、ひとりでひっそりとヘッドフォン(イヤフォン)・オーディオで聴く、
ということになるのだろうか。
こんなことを、今日Twitterに書いたら、野々村文宏氏からのツイートがあった。