オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その6)
日本で、東京で暮していると、建物のすぐ隣に別の建物があり密集している。
住宅地でも一戸建ての家のとなりにはマンションが建ってたりする。
都心に行けば、さらに高層マンション、高層ビルが建っている。
足もとはたいていアスファルトかコンクリート、といった固い地面。
それらに囲まれながら、の、あらゆる音にとり囲まれている。
こういう環境もあれば、360度見渡すかぎり地平線という広大なところに住んでいる人とでは、
日常の雑多な音は、まったく異っている。
それに同じような環境下でも、気候、とくに湿度が大きく違うところでは、やはり違ってくる。
たとえばカリフォルニアの湿度の低さは、日本に住んでいる者には想像できないほどで、
静電気によってスピーカーのボイスコイルが焼き切れることもめずらしいことではない、と聞いている。
そこまでカラカラに乾いた空気のもとでは、反射してくる音も直接伝わってくる音も、
高温多湿の日本とでは、どれだけ違ってくるのだろうか。
そういうふうに、われわれの周りにある音は、
まざり合っているというよりも、絡み合って存在しているように思える。
スピーカーから出てくる音も、そういう音と絡み合うことになる。
だから、スピーカーの音は、環境と切り離すことのできない性質のもの、といえ、
音と風土の関連性が生れてくるのかもしれない。
結局のところ、音も人の営みによって生れ出てくるものだけに、
スピーカーから、ヘッドフォンから出てくる音だけを、
人の営みによって生み出されてくる音と隔絶してしまうことは、もっとも不自然なことであり、
それは音楽を「孤立」させてしまうことになる、そんな気がする。
音楽を孤立させてしまい、その孤立した音楽を聴いている者も、また孤立してしまう。
それは、自分が住んでいる世界に対して、耳を閉ざしている行為に見えてしまう。