Date: 4月 4th, 2010
Cate: 「介在」
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オーディオの「介在」こそ(その1)

小林秀雄氏の「モオツァルト」。
ここに引用するまでもなく、私と同じ世代、そして上の世代の方に、強く刻まれているであろう、
「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつけない。」──。

「疾走するかなしさ」と語られることもある。

いまさら小林秀雄の「モオツァルト」でもあるまい、という世代もいるかもしれない。
それでも、かけがえのない存在、に近いところがある。

瀬川先生は、「モオツァルト」を書き写された。
そう聞いたことがある。だから、私も書き写したことがある。

そうやって読んできた「モオツァルト」を、ほんのすこしオーディオ的な側面から捉えてみると、かなしさの疾走には、風がともなっているはず、だと思えてくる。
疾走することによって、風が興る。

この「風」こそが、オーディオを通してモーツァルトを聴くのに不可欠な要素だと、
私の裡では、そう木霊している。

これが正しいモーツァルトの聴き方、というつもりはまったくない。
といいながらも、「風」を感じられない音で聴いて、何になるのか、ともいっている私が、いる。

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