再生音に存在しないもの(その1)
五味先生は、「フランク《ヴァイオリン・ソナタ》」で次のように書かれている。
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「色はあるが光はない」とセザンヌは言った。画家にとって、光は存在しない、あるのは色だけだと。光を浴びて面がどういう色を出しているかだけを、画家は視ておればいい。もともと、画布が光を生み出せるわけはないので、他のものを借りてこれを現わさねばならない、他のものとは、即ち色だ──「そうはっきり悟ったとき私はやっと安心した」と、ルノアールも言っている。セザンヌの言うところも同じだろう。──この筆法でゆけば、ぼくらレコード鑑賞家にとって音楽はあるが、ヘルツはない、そう言い切って大して間違いはなさそうに思える。演奏はあるが、ナマの音は存在しない、そう言いかえてもいいだろう。
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絵画に関しては素人だが、フェルメールの絵がすごい、のは、
光が存在しない画布に絵具を重ねただけなのに、
光を感じさせてくれるところにあるのはわかる。
この一点においてもフェルメールは天才だと思うし、
素人の私は、ゴッホやピカソよりも天才だと思える。
再生音にないのは、いったいなんなのか。
五味先生は上のように書かれている。
納得できるけれど、なにかすこし違うようにも、これを読んだとき、
もう20年以上前になるが、その時からそういう思いが続いている。
再生音にないものをはっきりといえるようになったとき、
大きく一歩前進する、といってもよいだろう。