情景(その4)
鮮度の高い音。
もっともらしくて、わかりやすく思える。
しかも鮮度の高い音は、ある意味たやすく聴ける、ともいえる。
昔のプリメインアンプにはトーンコントロールがついていた。
このトーンコントロールをバイパスするスイッチもけっこうついていた。
トーンコントロール回路を経由しないわけだから、
余分な回路を信号が通らない、その音は鮮度が高い、といえなくもない。
CDプレーヤーが登場して、パッシヴ型フェーダーを使うことで、
コントロールアンプを経由せずにパワーアンプにダイレクトに接続する。
その音を、鮮度が高い、といえなくもない。
でも、これらの音は、本当の意味で客観的に鮮度の高い音なのだろうか。
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オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人が多い。そして、そのためのパーツは工業製品であり電子工学や音響学の、つまり科学の産物なのだから、そこには主観とか好みを入れるべきではない。仮に好みが入るとしても、それ以前に、客観的な良否の基準というものははっきりとあるはずだ……。こういうような考え方は、一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている。
けれど、オーディオ装置を通じてレコードを(音楽を)楽しむということは、畢竟、現実の製品の中からパーツを選び組合わせて、自分自身が想い描いた原音のイメージにいかに近づくかというひとつの創造行為だと、私は思う。いや、永いオーディオ歴の中でそう思うようになってきた。客観的な原音というものなどしょせん存在しない。原音などという怪しげなしかしもっともらしい言葉にまどわされると、かえって目標を見失う。
(ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」まえがき より)
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瀬川先生が書かれている。
1979年においても、「いまでも」と書かれている。
ここからすでに四十三年が経っているが、この「いまでも」はそのままといえる。
《客観的な原音というものなどしょせん存在しない》とある。
そうである。
あるのは、主観的な原音である。
鮮度の高い音も、じつのところそうではないのか。
客観的な鮮度の高い音がある──、
ほんとうにそういえるのか。