Date: 3月 6th, 2022
Cate: コントロールアンプ像
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パッシヴ型フェーダーについて(その2)

別項「情景(その5)」に、tadanoさんからのコメントがあった。
鮮度についてのコメントである。
かなり長いので、ここでは引用しないがぜひ読んでもらいたい。

Tadanoさんのコメントの終りに、
パッシヴ型フェーダーを使うことでコントロールアンプを排除したり、
信号経路の短縮化による音の変化についてのメリット、デメリットについて、
私の意見をきかせてほしい、とある。

なので、この項のタイトルを少しばかり変更して、十年以上経っての(その2)である。
その1)は、2008年9月に書いている。

プリメインアンプのトーンコントロール回路をバイパスしたり、
パッシヴ型フェーダーを使うことで、CDプレーヤーとパワーアンプを結ぶ。

そうすることでの音の変化は、一般的には鮮度があがる、というふうに表現されることが多い。
ほんとうに鮮度があがるのか、鮮度があがる、という表現が適切なのか、ということでいえば、
音の夾雑物が減る、といったほうがいいと私は考えている。

オーディオは、信号が何かを通るごとに、何かが失われ、何かが加わる。
ケーブルであっても、コネクターであっても、
パッシヴな部品であっても、プリミティヴな部品であっても、
何かが失われ、何かが加わる。

これは、少なくとも私が生きている間は、変ることはないはずだ。

1 Comment

  1. TadanoTadano  
    3月 11th, 2022
    REPLY))

  2.  応答が遅くなってしまいました。質問への返答ありがとうございます。とても嬉しいです。そして、コメントのご高覧、重ねて感謝いたします。
     何かが失われ、何かが加わる―。そして、夾雑物という表現。まったく簡潔で美しい表現だと思いました。
     確かに、信号経路の短絡に対し、鮮度があがるという表現を使うのだとすると、何を鮮度とみなすか?ということは個人各人に意見の相違があるわけです。魚介の輸送に使う氷のような役割もプリアンプにはあるわけですから、誤解の生じる表現だと思っていたのです。
     と言うのは、コンサートで何十メートルもケーブルを引き回す場合にプリアンプはてき面に効果を発揮しますから、パブリックなスペースで音響を使った経験のある人からすれば、むしろプリアンプにこそ鮮度をあげるモノという印象が感じられるはずなのです。
     それに対し、夾雑物が減る。つまり、まつわりつくもの、そこで付帯するものの増減というあらわし方ですね。これには無理がありません。なぜなら、エキスパンダーやノイズゲートというものにおいてすら、夾雑物はしっかり付着するからです。
     趣味でエビを飼っているのですが、今、目の前にその水槽があるわけですが、そこに目をやりますと色んなことを発見するわけです。水槽の底部には土や砂、落ち葉などが堆積していて、ちょうど地質学の挿絵に出てくるような地層の断面のようなものを見ることができます。この層は、私たちが水質を少しでも良くしようとした奮闘の結果でもあります。私は地質学に明るくないのですが、地質学というのは、圧力と時間によって成り立っているものだと考えられています。
     私は経験論者ではありません。むしろ、経験論を振りかざすことによって恐怖や同調圧力を作り出し、それによって支配しようとする者に対して、軽蔑と憤りの念を持って退けてきました。とはいえ、実のところ世の中でセンスと呼ばれているもののほとんど多くは、この圧力と時間によって生み出されているのではないかと思うのです。
     宮崎さんがステレオを土になぞらえ例えていらっしゃるのを読み、素敵だと思いました。宮崎さんが今回選ばれたお言葉には、まさにそういったじっくりとした重厚さが充実しているように感じられました。
     ところで私は、どちらかと言うとパワーよりもプリアンプに興味を持っています。私の棚には、レコードのターンテーブル、パワーアンプ、MTRが各一台収まっています。スピーカーも一対です。しかし、プリアンプだけは選ぶことができず、4台を横一列で使っています。マランツの3600、ラックスマンのC-1010と、ガスの二台のアンプ、セーベとサリアです。これらはそれぞれが高い次元の音を持ち、長距離の伝送にも適しています。
     こうして見てみると、これらは70年代のギアばかりです。宮崎さんがどこかでおっしゃられたように、この時代のオーディオには、一種独特な狂気のようなものがあるようです。私はそこにはっきりと同意したいのです。このことはずっと感じていたことでした。また、それとは相反することを言うように聞こえるかもしれないのですが、それと同時に、そこにある種の善良な美徳も感じているのです。この時代の音の、オーセンティシティーとアヴァンギャルドさとのバランスが、個人的にはしっくり感じられるのです。カンディンスキーやピカソをはじめとする初期の抽象絵画にも感じられるような、こっくりとした知性と言ったらよいでしょうか。彼らの作品の持つ前衛さは、深い基礎を持っているようで、うわっついたトレンディさなどは微塵も感じさせません。オーディオが、そういう雰囲気に満ちている時代。そういう印象を私は抱いているのです。
     さらに、私が持っているこれらのアンプについては、実用上、歪みやノイズ、ギャングエラーで悩まされたことがありません。これらの点が、更にもっと古い時代のアンプとの違いとして感じられるところです。キャノンが無いなど、前時代的な部分も見受けられますが、道具としての完成度が現在のものと比較して劣るというところは持ちません。むしろ、機能的です。プロアマ問わず私の周囲の多くのミュージシャンが、これらの再生音を聞き、また使用し、時代を超越できるもの、自分にとって使えるもの――と判断しています。
     マランツのプリアンプリファイアーのマイクロホン端子にストラト・キャスターのプラグを差し込んでプレイしたときの衝撃は、忘れることができません。その音は弾く者の徳と狂気と凡庸さをすべてあからさまにし、いかなる強弱も誇張せず、また、いかなるピッキングも平均化して表現しようというところがありませんでした。そして、その恐ろしいまでのリニアーリティによって、聞く者と弾く者のすべてを圧倒してしまったのです。我々は互いに見合わせ、いちど黙り、ある人は口をあけ、ある人は頭を抱え、また別のある人は座り込みました。「オールマイティー(全知全能)だ」と感じました。それは最新のテクノロジーを駆使した音に感じられたのです。
     そこでそのとき得られた音は、かつて私が耳にした新旧いかなるアンプが奏でた音よりも良いものでした。ちなみにその時のパワーは、ステレオ・サウンド41号のマイハンディ・クラフトのページで掲載されている上杉佳郎先生が設計された自作の管球式アンプリファイアーで、キャビネットはJBL・Dシリーズの12吋ユニットを使ったツイーター付きのものでした。
     プリアンプはギアとしては軽量で、触っても面白く、また、それぞれのギアの背景や音楽観と対話できるところが面白いです。それに、優秀なプリアンプにはDTMのプラグイン等にはない、より実践的でなじみのいいトーン・コントロールが付属しています。
     「パッシヴ型フェーダーについて(その3)」の中で宮崎さんがご指摘されているとおり、その部品点数の多さから考えれば優れたプリアンプの能力は驚異的です。
     また、部品同士が補い合うという表現について、とてもロマンチックな表現だと思いました。というのは私たちは「今の音はスピーカーとアンプが話し合って音を決めていたんじゃないか」とか、エフェクターとアンプが話し合って―、などというふうに擬人的な表現を使って普段遊んだりしていたのです。それをもっと突き詰めていくと、部品と部品が話し合っているという言い方もできるわけですね。そこに無限のロマンを感じます。

    1F

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