カザルスのモーツァルト(その2)
パブロ・カザルス指揮によるモーツァルトを聴いていると、
「細部に神は宿る」について、あらためて考えさせられる。
なにもモーツァルトでなくてもいい、
カザルス指揮のベートーヴェンでもいい、シューベルトでもいい、
私にとって指揮者カザルスによって生み出された音楽を聴いていると、
これこそ「細部に神は宿る」と実感できる。
「細部に神は宿る」ときいて、どんなことを思い浮べるか。
細部まで磨き上げた──、そういったことを思い浮べる人が多いかもしれない。
そういう人にとって、カザルスが指揮した音楽は、
正反対のイメージではないか、と思うかもしれない。
丹念に磨き上げられ、キズひとつない──、
そういった演奏ではない。
それなのに「細部に神は宿る」ということを、
指揮者カザルスの音楽こそ、そうだ、と感じるのは、
すみずみまで、血が通っているからだ。
太い血管には血が通っていても、
毛細血管のすべてにまで十分に血が通っているわけではない、ときく。
毛細血管の端っこまで血が通っていなくとも、
指先の手入れをきちんとやり、爪も手入れも怠らない。
そういう演奏は少なくない。
そういう演奏を「細部に神は宿る」とは、私は感じない。
カザルスの音楽は、そうじゃない。
毛細血管の端っこまで充分すぎるくらいの血が通っている。