何を欲しているのか(快感か幸福か)
10代から20代にかけて、いっぱしの音楽の聴き手ぶっていたところで、
まだまだ若造に過ぎなかった音楽の聴き手であったことは、
この項の(その18)にも書いた。
けれど、この音楽の聴き手として未熟な時期に出会ったレコード(音楽)は、
だからこそ重要な意味を、大切な存在になってくるように思う。
黒田先生が「ぼくのディスク日記」にチャールス・ミンガスの「直立猿人」のことを書かれている。
ステレオサウンド 85号に掲載されている。
「音楽への礼状」においても、チャールス・ミンガスのことを書かれている。
チャールス・ミンガスの「直立猿人」を、黒田先生は「もっとも大切なレコードのひとつである」と書かれ、
「ことあるごとに、ぼくはこのレコードをききつづけてきた」とも。
黒田先生は「対象のさだかでない怒りの処置にてこずったとき」に、
いつでもチャールス・ミンガスの音楽をきいて、
「ぼくの怒りは、象の尻にたかる虻(あぶ)ほどもない、ごくちっぽけな、けちなものにしかすぎない」
と思えてきた、とも書かれている。
黒田先生にとって「直立猿人」は、
「物心ついてから後のぼくの人生を、このレコードに伴奏してもらったようにさえ感じている」存在である。
物心ついてから後の人生を伴奏してくれるレコードとは、
若く、音楽の聴き手としては未熟なときに出会うものである。
歳を重ね、音楽の聴き手として未熟なところを少しずつへらしていった後で出会える名盤と、
そこのところで違う。
どちらの名盤も、大切な愛聴盤ということでは同じであっても、
物心ついてから後の人生を伴奏してくれたレコードと、あとから出会ったレコードは、決して同じではない。
私にも、一枚、物心ついてから後の私の人生を、伴奏してもらったように感じているレコードがある。
未熟な音楽の聴き手のころに出会ったレコードだ。
いまも大切なレコードであり、この一枚と出会えたことこそが幸福であった、ともいえる。