ワイドレンジ考(ジャズにとって、クラシックにとって・その3)
ジャズもクラシックも生身の人間が楽器から音をひき出して生れるものである。
どちらも肉体運動の結果としての音が生れている。
つまり音を発するためには、なんらかのエネルギーが費やされていて、
そのエネルギーゆえの音の存在を、私はクラシックにおいてもジャズにおいても感じとりたい。
その意味では、私がオーディオに関心をもち始めたころ(1970年代後半)まで
オーディオ誌でわりとよくみかけていたクラシック向き、とか、ジャズ向き、
といったスピーカーシステムの音の区分けは゛私にとってはどうでもいいこと。
エネルギッシュな音がするからジャズに向いている、
きれいな音が弦に向いているクラシックだ、とか、
いまもそういうふうにスピーカーシステムの音を捉えている人はほとんどいないと思う。
でも、こういうことが以前はいわれていた。
ジャズもクラシックも、アクースティック楽器を演奏しているかぎりは、
演奏者のエネルギーといったものを、音から感じとりたい。
音のエネルギーの総量ということでいえば、オーケストラによる演奏があるクラシックのほうが大きい。
ただオーケストラのエネルギーの総量を、
リスニングルームでそのまま再現することは基本的には無理のあることだから、
響きの美しさの再現が重視されるということはあるかもしれないし、
編成の小さなジャズであれば、ある程度の音量が許される環境であれば、
エネルギーの再現に関しては、ほぼリアルにもっていくことも無理なことではない。
そういうこともあって、ジャズのほうがエネルギーの再現が、
クラシックにおいてよりも重視されがちなのかは理解できなくもないが、
それでも、私はクラシックにおいても、十分なエネルギーを、その音に感じとりたい。
そうでなければ、カザルスが指揮するベートーヴェンを聴く意味がない、とまでいいたくなる。
演奏される場においては演奏者のエネルギーが充ちている、ともいえるし、
そのエネルギーの充ちた感じをできるだけ、自分が音楽を聴く環境でも再現したいのは、
ジャズであろうがクラシックであろうが同じではあるが、違いもやはりある。
そのエネルギーが、音楽のどこに、主に注入されているのか、費やされているのか、ということだ。
そしてエネルギーの表出のされ方の違いもある。
ここにおいて、ジャズとクラシックでは、私のなかでは「いろ」と「かたち」ということになる。
つまりクラシックにおいては、音の造形物のためにおもにエネルギーが費やされ、
ジャズにおいては、一瞬一瞬の情報量(いろ)のために費やされる──、
あくまでもこれは大きくわけたとすれば、ということではあるし、
すべてのクラシックの音楽、演奏家のスタイル、すべてのジャズの音楽、演奏家のスタイルが、
「かたち」と「いろ」のふたつにはっきりとわけられるものではないし、
ジャズでもそこでのエネルギーが「かたち」に、
クラシックでもそこでのエネルギーが「いろ」に費やされることもあるのは承知のうえで、
それでもやはりクラシックでは「かたち」、ジャズでは「いろ」にエネルギーが費やされている、と感じる。