Date: 12月 13th, 2017
Cate: pure audio
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ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その5)

「菅野沖彦の音を超えた」──、
そういった人もいる、と聞いている。

これを言ったのが誰なのかも聞いている。
会ったことはないけれど、インターネットではけっこう名の知られている人だ。

あくまでも又聞きだから、その人がなぜそんなことを言ったのか、
推測で書くしかないけれど、そうとうな自信をもってのひと言だった、らしい。

その人が使っている装置の総額は、
菅野先生のシステムの総額をはるかに超える。
いわゆるハイエンドオーディオと呼ばれているモノばかりで、
ケーブルもそうとうに高価なモノである。

その人がいったのは、システムの総額のことではない。
音のことである。

その人は、菅野先生の音を聴いている。
そのうえでの「菅野沖彦の音を超えた」──、
菅野先生の音を、ひじょうに断片的な聴き方をしての、この発言なのか。

私が菅野先生の音を聴いたのは、もう十年ほど前のことだ。
その一、二年あとに、これを聞いている。

私は、その時の菅野先生の音を聴いて、
「オーディオはここまでの再生が、やはり可能なんだ」と勇気づけられた。

オーディオの限界をどう感じるかは、人によってすいぶん違うようだ。
私は、ずっと、そうとうに高いところに限界はある、というか、
ほとんど限界はないのかもしれない、
つまりそうとうな可能性をもっている──、そんな直感が、
「五味オーディオ教室」を読んだ時から持っていた。

それでも現実の音は、必ずしもそうではない。
けれど、菅野先生の音を聴いて、直感は間違ってなかった、と感じた。

その菅野先生の音を超える音を出した、という人がいる。
世の中には上には上がいる、ということはわかっている。

けれど「菅野沖彦の音を超えた」と自慢げに誰かに言っている人の音が、
菅野先生の音を超えている、とは私には思えない。

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