Date: 5月 11th, 2016
Cate: pure audio
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ピュアオーディオという表現(SNSをみていて感じたこと)

大衆文学・通俗文学への対義語として、純文学というわけだが、
このことから少し離れて「純文学」を捉えてみるとともに、
そこからピュアオーディオを考えてみると……、と思うことがある。

文学作品が本になる。
これを手にとって、われわれは読む。
そんなふうに純文学に接する。

純文学の本には、挿し絵もない。
ページをめくっていっても、文字だけが印刷されている。
当然だが、その文字はすべて活字である。

手にする本に、作者の肉体を感じさせる要素はない。
手書の文字が印刷されていれば、作者の肉体のようなものを感じとれようが、
活字にはそんなことを感じさせる要素はない。

つまり印刷物で接する純文学には、肉体という、いわば夾雑物がない、
だからこその「純」文学といえるのではないか。
こんな捉え方もできなくはないはずだ。

こんなことを考えるのは、そこに肉体を感じさせるのか感じさせないのか。
私のオーディオは、そこから始まったともいえるからである。

「五味オーディオ教室」は、まさにこのことから始まる。
     *
 電気で音をとらえ、ふたたび電気を音にして鳴らすなら、厳密には肉体の介在する余地はない。ステージが消えて当然である。しかしそういう電気エネルギーを、スピーカーの紙の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。少なくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく、実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。かんたんにいうなら、そして会場の雰囲気を音そのものと同時に再現しやすい装置ほど、それは、いい再生装置ということになる。
     *
たしかにそのとおりであって、オーディオいう再生系のどこにも、
演奏者の肉体の介在する余地はない。にもかかわらず、「音に肉体の復活」を錯覚できるのもまた事実である。

この「肉体の復活」は、夾雑物ととらえることもできよう。
そう捉えるか、「肉体の復活」を錯覚したいのかは、聴き手による。

私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まっているから、
「肉体の復活」をとるわけだが、そんなものは夾雑物だから……、と考える人もいる。

演奏行為は肉体による運動である。
ゆえにその肉体を音から感じとりたい、と思う人、
音だけを感じとりたい人とがいる。

音楽には打ち込み系と呼ばれるジャンルがある。
もちろん打ち込み系であっても、人がなんらかの操作をした結果であるのだから、
肉体運動がないわけではない。
それでもアクースティック楽器を演奏しての行為と比較すれば、かなり稀薄である。
しかも打ち込み系ではライン録りでもある。

楽器が演奏される空間が介在しない。
アクースティックな響きは、ここには存在しない。

つまり、この種の音楽は、いわば夾雑物がない(ほとんどない)音楽という捉え方もできる。
肉体を拒否するということは、肉体が存在する空間もまた拒否するということ。

これこそが「ピュア」オーディオである──。

私にとってのオーディオは、肉体の介在を求めるオーディオだから、
夾雑物を排除した「ピュア」オーディオではないわけだが、
だからといって、「ピュア」オーディオの世界、それを指向(嗜好)する人のことを否定はしたくない。

SNSをみていて、感じたことである。

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