Date: 8月 11th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その4)

その2)で、オーディオ評論家という書き手の商取引の相手は出版社だと書いた。
オーディオ評論家という書き手は、原稿を出版社に売って対価を得ている。
原稿とは、いわゆるオーディオ評論という商品である。

それは商品足り得なかったりしているわけだが、
それでも出版社から原稿料をもらっている以上、それは商品ということになる。

その商品を書くため(作るため)に、
オーディオ評論家は試聴を行う必要がある。

どんないいかげんなオーディオ評論家といえども、試聴せずに試聴記を書くようなはしないはず。
そんなことをしてバレてしまったら、オーディオ評論家としてやっていけなくなる。

別項「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その10)」で書いているような、
あんないいかげんな聴き方をしていて、
それはもう試聴とは呼べないものであっても、形の上では試聴を行っている。

片チャンネルが逆相で鳴っていた音を聴いて、試聴記を書いて、
それが商品として通用するわけだから、むしろ聴かないほうがいいのではと思うこともある。

それでもオーディオ評論家と呼ばれる人たちは、試聴を行う。
試聴をやることで対価が得られる、というのも理由のひとつである。

オーディオ評論家が出版社からもらうのは、原稿料だけではない。
試聴という取材に対しても、貰っている。

これを否定はしない。
オーディオ評論家の原稿は、試聴を必要とする場合もあれば、そうでない場合もある。
あるテーマを与えられた原稿などは試聴する必要はないわけだ。

オーディオ評論家が試聴する場は、出版社の試聴室だけではない。
自身のリスニングルームも試聴の場となる。
そしてメーカーの試聴室、輸入代理店の試聴室も、そうだ。

出版社が直接関係しない試聴が、オーディオ評論家にはある。

Date: 8月 11th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(音楽に在る死)

《神をもたぬものに、死が問われるわけがない。その音楽には〝死〟がない》

その音楽には〝死〟がない──、
ということは、その音楽には〝美〟がない、ということだ、と、
いま改めて「音楽に在る死」を読み終って、そうおもう。

美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、といわれても、
最初は、なかなか実感はわかなかった。
まず、なぜ羊なのか、と多くの人が思うだろう、私も思った。

大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。

神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。

以前書いたことを、またくり返し書いている。
くり返し書くことで思い出すこともある。

バブル期に多くの企業が美術品を世界中から買いあさっていた、と報じられていたことをおもいだす。

Date: 8月 11th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(Jörg Demus)

五味先生のコレクションをみていて、
イェルク・デムス(Jörg Demus)のレコードの意外と多いことが、
「音楽に在る死」の最後に書かれていたことと結びつく。
     *
 神をもたぬものに、死が問われるわけがない。その音楽には〝死〟がない。シューマンは畢にそれだけの作曲家だ、と私は思っている。もちろんシューマンの育った十九世紀前半の世相——全体としてはロマン主義の時代に属するが、民主思想と自由主義の擡頭にともない、すべての階層が歴史の担当者として登場し、自己の権利を主張できた。又、イギリスに始まった産業革命は、当然、それまでの経済態勢をくつがえすと同時に、産業革命の基底にある自然科学の発達と、唯物的傾向、実証主義思想ともいうべきものをいちじるしく伸張させた。
 神はいなくて当然であり、そういう時代背景を抜きにしてシューマンの音楽は語れないと、諸井三郎氏などは指摘されるが、まったくその通りだろう。それは分る。だが、時代背景なんぞでぼくらは音楽を聴くのではない、少なくとも私は御免だ。私が聴きたいのはいい音楽である。そしていい音楽とは、倫理を貫いて来るものだ、こちらの胸まで。シューマンにはそれがない、死がない。それがデムスの弾いたシューマンであっても、だ。
     *
私はこれまでデムスの熱心な聴き手ではなかった、というより、あまり聴いてこなかった。
これから集中して聴いていこう、遅くはないとおもう。

Date: 8月 11th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ブラームス ヴァイオリン協奏曲(クライスラー盤)

 ステージで演奏するソナタや、協奏曲を、暗譜で弾いたフリッツ・クライスラーは、大変な近眼だったので、伴奏者への配慮で一応、譜面を前にしてはいるが譜などまるで見ていなかったと、ミヒャエル・ラウホアイゼンは語っている。ラウホアイゼンは一九一九年から十年余、クライスラーの伴奏をつとめたが、その回想で又こうも言っている。——「ステージで演奏の休止のとき、クライスラーはヴァイオリンの頭部をもって、ぶらさげ、けっして脇の下に抱えたりはしなかった。一度、わけをたずねたら、そんなことをすれば弦をあたため、音が変ってしまうと彼は嗤った。又、あごの下にクッションを当てるようなことも此の巨匠はしなかった。クッションを使用すると、ヴァイオリンの音がこもる、ほら、こんな具合に——と弾き較べてくれたのが……」クライスラー愛好家ばかりか、音キチなら快哉を叫びたい挿話だろう。
     *
五味先生の「音楽に在る死」からの引用だ。

クライスラーは1950年に引退している。
これ以降のヴァイオリニストも多くは、脇の下にヴァイオリンを抱えている。
顎の下にクッションも当てる人もけっこういる。

この人たち(ヴァイオリニストたち)にとって、音とはその程度のことなのか、と思ってしまう。

「音楽に在る死」には、こうも書いてある。
     *
 ジャック・ティボーは、どうしてもクライスラーの演奏した数々の協奏曲の中で、一つを選ばねばならないなら、躊躇なくブラームスのを採ると言ったそうである。なるほど、レオ・ブレッヒ指揮のベルリン国立オペラ管弦楽団とのそれは、ベートーヴェンやメンデルスゾーンの協奏曲とともに、SP時代、空前絶後の名演と讃えられ、クライスラーでなくば夜も明けぬ時期が私にはあったが、白状すると、メンデルスゾーンやベートーヴェンほど中学生には面白くなかった。私だけに限らぬようで、この協奏曲が、ヨアヒムとの親交なしに生まれなかったろうことは知られているが、そのヨアヒムが「自分のように指の大きな者でないと弾きにくかろう」と言い、それほど至難な技巧の要求されるわりに花やぎのないことをフォン・ビューローも指摘している。(ブルッフはヴァイオリンに味方する協奏曲を書いたが、ブラームスはヴァイオリンに敵対するそれを書いた——ハンス・フォン・ビューロー)要するに大変シンフォニックで難渋なこの曲が中学生に分るわけはなかった。門馬直美氏の解説で知ったのだが、この曲の完成後数年たって、当時早くも完璧な技巧の持主といわれたフーベルマンが十歳前後でこれを弾いたとき、天才とか神童をあまり好きでなかったブラームスも、次第に演奏に惹きつけられ、終ってから控室に出向いて、演奏途中で喝采が起って気分がそこなわれたと悲観していたこの少年を抱いて、接吻し、褒めたたえて言うのに「そんなに美しく弾くものじゃないよ。」——ブラームスの面目躍如たる挿話だ。且この曲がどんな種類の音楽かもこの挿話は明かしている。
 クライスラーは、申してみればフーベルマンの再来だろう。
     *
クライスラーは引退後、それまで蒐集した楽器や美術品を手放したそうだ。
けれどブラームスのヴァイオリン協奏曲の自筆譜とショーソンの「詩曲」の自筆譜は置いていた。

Date: 8月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その16)

私が買った「名曲名盤300」は、
二ページ見開きに三曲が紹介されていた。

評を投ずるのは七人の音楽評論家。
十点の点数を、三点以内に振り分けるというものだった。
評論家によっては、一点に十点をつけている場合もあった。

そして200字ちょっとのコメントをすべての評論家が書いていた。
ステレオサウンド 43号のベストバイのやり方とほぼ同じである。
コメントの中に出てくる演奏者名はゴシックにしてあった。

編集という仕事を経験していると、
200字程度のコメントを、少ない人(評論家)でも数十本、
多い人では二百本くらいは書くことになり、これはたいへんな労力を必要とする作業である。

もう少し文字数が多ければ楽になるだろう。
演奏者名だけでも、少なからぬ文字数をとられる。
残った文字数で、選考理由や演奏の特徴などについてふれていく。

選ぶ作業でも大変なうえに、コメントを書く作業が待っている。
人気のある企画とはいえ、同じやり方で継続していくとなると、
評論家からのクレーム的なものが出てきたであろう。

誰かひとりが代表して書けばいいじゃないか、
そうすることで文字数は増えるし、書く本数もずいぶんと減る。

書き手(評論家)の負担はそうとうに小さくなる。
それでも選ぶだけでもたいへんとは思うけれど。

でも、これは作り手側、書き手側の事情でしかない。
読み手側にしてみれば、なぜ以前のやり方を変えてしまったのか、と思ってしまう。

私もステレオサウンドの読み手だったころ、
なぜ43考のやり方を変えてしまったのか、と不思議に思ったものだ。

作り手側、書き手側の負担を減らすということは、
誌面から伝わってくる熱量の変化としてあらわれる。

編集経験があろうとなかろうと、読み手は敏感に反応する。
熱っぽく読めるのか、そうではないのか、のところで。

Date: 8月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その15)

レコード芸術別冊「名曲名盤500」。

レコード芸術がいつごろから、この企画をやりはじめたのかはっきりとは知らないが、
私がまだ熱心に読んでいた1980年代には、すでにあった。
そのころは500ではなく200曲少ない300だった。

レコード芸術で数カ月にわたって特集記事で、しばらくすると一冊の本として発売されていた。
もう手元にはないが、あのころ一冊買っている。

持っているレコードにはマーカーで色付けして、
持っているけれど選ばれていないディスクをそこに書きこんだり、
買いたい(聴きたい)ディスクには別の色のマーカーでチェックしたりした。

一年ほどでボロボロになってしまった。

いま書店に並んでいる最新の「名曲名盤500」を買おうとは思わない。
書店で手にとってみた。
いまは、こういうやり方なのか、とがっかりした。

ステレオサウンドのベストバイと同じ道をたどっている、とも思った。
何度も書いているように、ステレオサウンドのベストバイで、
私がいちばん熱心に読んだのは43号である。

43号のやり方が理想的とはいわないが、これまでのベストバイ特集の中ではいちばんいい。
熱心に読んだ。

それは時期的なものも関係してのことではあるが、
いま読み返しても43号のやり方は、評論家の負担は大きくても、
一度43号を読んできた者にとっては、それ以降のベストバイはものたりないだけである。

同じことを最新の「名曲名盤500」にもいえる。
評論家(書き手)の負担を慮ってのやり方なのだろう、どちらのやり方も。

Date: 8月 10th, 2017
Cate: background...

background…(ポール・モーリアとDitton 66・その6)

スピーカーの前面に扉があり、
そのスピーカーで音楽を聴くには、扉をきちんとあける必要がある。
そういうスピーカーシステムであるセレッションのDEDHAMは、
ベースとなったDitton 66に、
古風な外観のキャビネットというデコレーションを施したスピーカーといえる。

けれど(その4)でも書いているように、
それはデコレーションのためだけではなくて、はっきりとデザインといえる要素でもある。

扉を開けなければ、DEDHAMではまともな音は聴けない。
では開けっ放しにしておくのか。
几帳面な人ならば、聴き終れば扉を閉める。

ずぼらな人ならば、どうだろうか。
少なくともDEDHAMを買った人、つまりはDEDHAMを選択した人ならば、
多少性格にずぼらなところがあったとしても、音楽を聴くごとに扉を開け閉めするのではないだろうか。

DEDHAMのところまで行って、扉を開ける。
当り前のことだが、左右のDEDHAMの扉を開ける。
聴き終れば、ふたたびDEDHAMのところに行き、扉を閉める。

その5)で書いたように、DEDHAMは聴き手にある種の儀式を求める。
このことが、私がデザインといえる要素と考えるところである。

DEDHAMのアピアランスは、確かにデコレーションといえる。
けれど、そのままの状態(扉を閉じたまま)で聴けるスピーカーではないところに、
意図されたデザインを感じる。

ただそれは聴き手が扉をつねに開けっ放しにしてしまったら、
あっけなく消えてしまうはかなさももちあわせている。

Date: 8月 10th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その26)

オーディオの想像力の欠如したままでは、問いを発することができない。
問いを発せられなければ知識の体系化は無理である。

Date: 8月 10th, 2017
Cate: 型番

JBLの型番(4301)

4301は1977年ごろに登場したJBLのもっとも小型なモニタースピーカーだ。
4343に憧れていた10代の私にとって、手が届きそうで届かなかったスピーカーでもあり、
そのことは別項「世代とオーディオ(JBL 4301)」で書いている。

この4301という型番、
じっと眺めていると43分の1というふうに読めないこともないな、と思えてくる。
1/43といえば、ミニカー(ミニチュアカー)のいわば標準的な縮尺である。

いまでは1/18、1/12といった縮尺が増えているけれど、
もともとがOゲージのアクセサリーが原点なのだから、1/43が標準縮尺といえる。

4301という型番を43分の1というふうに捉えると、
このスピーカーが4300シリーズで小型だったことも、
その位置づけもはっきりしてくる。

そして4343。
43分の43、つまりは1である。
4343こそ縮尺なしのスタジオモニターということになり、
同時代の4350は43分の50で、4343の約1.16倍の拡大モデルということも、
うまくあてはめられる。

4300シリーズの43に、ミニターの縮尺の意味合いはまったくないはずだ。
それでもこうやってあてはめてみることができることに気づくのが、
型番についてぼんやり考える楽しさともいえる。

Date: 8月 9th, 2017
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とワグナー(その6)

音楽に在る死」は二万字をこえている。

ブラームスについてのところだけでも長い。
ブラームスについてのところだけでも引用したいと思っても、長い。
     *
 こうした、一八九二年以降の相尋ぐ女性たちの死は、むろん作品一一五の『クラリネット五重奏曲』が作られた後のことだ。私の聴き方が正しいなら、自ら遺書をしたためてから、当然、生き残ってくれるはずのかけがえない友人たちを、遺書を書いた本人が生きて次々見送らねばならなかった。文を草した遺書なら破り棄てれば済む。作品一一五はすでに発表されているのである。残酷な話である。クララやエリーザベトやシュピースの死んでゆくのを見送るブラームスを想いながら此の『クラリネット五重奏曲』を聴いてみ給え。遺書として聴き給え。作品が、時に如何に無惨なしっぺ返しを作者にしてゆくか、ものを創る人間ならつまりは己れの才能に復讐されるこの痛みが、分るだろう。前にふれた太宰治の死も、同じことだ。三島由紀夫だって結局は、同じところで死んでいる。『クラリネット五重奏曲』がそう私に告げてくる。聴いてくれ、太宰治と太宰を嫌悪した三島由紀夫と、どちらも本当はどんなに誠実な作家だったかを、この曲の第二楽章アダージョから聴き給え。二人の肉声がきこえるだろう? くるしい、生きるのは苦しかったなあ苦しかったなあ、そう言っているのが、きこえるだろう?……ブラームスは私にそう囁いている。涙がこぼれる。
 死のつらさを書かぬ作者は、要するに贋者だ。
     *
五味先生の文章は、このあとシューマンについて語られている。

いまの世の中、クリエーターを自称する人は大勢いる。
けれど、
《作品が、時に如何に無惨なしっぺ返しを作者にしてゆくか、ものを創る人間ならつまりは己れの才能に復讐されるこの痛みが、分るだろう》
そういう人はどれだけいるだろうか。

死馬。
五味先生は、クリエーターを自称する人のこと、
己れの才能に復讐されたことのない人のことを、
死馬──死のつらさを書かぬ作者は、要するに贋者だ。そいつは初めから死馬である──であると。

私の中にあるシューマン像は、「音楽に在る死」ででき上がったところがある。
だから、それはあまりいいものとはいえない。
いまもシューマンはあまり聴くことがない。

五味氏の文章を読みすぎた弊害だろう──、
そういわれるのはわかっていても、もうそれでいい、と思っている。

いまから三十年以上前に、あるオーディオマニアと知りあった。
彼をシューマン的であった。

Date: 8月 9th, 2017
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その2)

知人はインターネットに何を求めていたのか。
おそらく答なのだろう。

コワイな、とも、この件について考えるとそう思う。
インターネットに限らず、世の中にはさまざまな情報が流れている。
その情報は答ではない。

答を自分で見つけていくためのきっかけ、手がかりである。

けれど知人は答が得られると思い込んでいたのかもしれない。
けれど、知人は間違ったことを答と信じた。

コワイな、と思うのは、間違った選択をしたことよりも、
知人が安易に答を求めようとしていることである。

こういう人が、一時期とはいえオーディオ雑誌に寄稿していた。
インターネットの情報に答を求めようとする人は、
読み手にも答を与えようとするのではないか。
そのことがコワイ、と思う。

オーディオ雑誌の作り手も、またそうなのかもしれない。
だから、そういう書き手を選択してしまう、ともいえよう。

よく、あのオーディオ評論家は信用できない、という。
私も、いまのオーディオ雑誌に書いているオーディオ評論家と呼ばれている人たちを、
信用しているかといえば、誰も信用していない。

同じ信用していないでも、理由まで同じわけではない。
「あのオーディオ評論家は信用できない」という人の中には、
答を求めてオーディオ雑誌を読んでいる人がいる。

どのスピーカーがいちばんいいのか、
どのアンプが自分が使っているスピーカーに会うのか、
そういった答(便宜的に答としているが、ほんとうの意味での答ではない)、
それしか求めてない人は、自分の好みと反対の人の書くものは役に立たない、
そんなことを書く人は信用できない、となるようだが、
私は読み手に考えることを放棄させるようなことしか書けない人を、
私は信用していない。

Date: 8月 8th, 2017
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その1)

facebookを眺めていたら、
「知識を手に入れるための知識」がない人にとって、Google検索はあまりにも難しい。
というタイトルがあった。

リンク先のコラムを読んでいて思い出したことがある。
十年近く前のことだ。
知人が、自身のサイトにCDとLPの比較について書いていた。
そこに知人は、CDは角速度一定、LPは線速度一定と書いていた。

知人が、その記事を公開してすぐに、私が見て気づいて連絡をとった。
なのですぐに、CDは線速度一定、LPは角速度一定と訂正された。

知人にきいてみると、この記事を書くにあたってインターネットであれこれ調べたそうだ。
いくつかのサイトの中で信頼できると判断したところに、そう書いてあった、という。

他のサイトでは、CDは線速度一定、LPは角速度一定と正しいことが書いてあるのに、
あえて間違っていることを書いているサイトを、知人は選んで信じてしまっていた。

まさに「知識を手に入れるための知識」が知人にはなかったわけだ。
事実、知人は線速度と角速度がどういことなのかも知らなかった。

この知人を責めたいわけではない。
少なくとも知人は知らないことが自分にはあるとわかっていて、
インターネットで調べようとした。
ただ間違った選択をしてしまった。

このことは、知人だけのことではないように思う。
私が知らないだけで、オーディオの世界でも、オーディオの世界以外でも、
かなり頻繁に起っているのかもしれない。

Googleの検索結果からの選択。
そこで少なからぬ人が間違った選択をしてしまっているのか。

Date: 8月 7th, 2017
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方

とんかつこそ男の好物だ、
そう思っている私。

いま書店に並んでいるBRUTUS 852号
特集は「とんかつ好き。」

すぐに手にとりたくなる企画、
でもすこし待った。

とんかつ好きの男、
それも編集経験がある男。

「とんかつ好き。」の特集、
どういう内容にするのか、考えた。

考えたあとに、インターネットで、
「とんかつ好き。」の目次をみた。

これは買おう、と思った。
明日にでも買うつもりだ。

こんなふうにして、オーディオ雑誌をみてみるといい。
これは買おう、と思わせてくれないのばかりだ。

Date: 8月 7th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その11)

五味先生のレコードコレクションの詳細を知りたい、と思っていた。
「五味オーディオ教室」を読んだ時から思い続けてきた。

「五味オーディオ教室」、「西方の音」、「天の聲」、「オーディオ巡礼」、「いい音いい音楽」、
これらの本に出てくるレコードのことを一覧表にしたこともある。

それをやっても全貌が見えたわけではなかった。

五味先生のコレクション、
オーディオ、レコードだけでなく、その他のコレクションも、
練馬区で保管されている。

練馬区石神井公園 ふるさと文化館のウェブサイトで、
五味先生のコレクションが公開されている。
けれどここには、レコードコレクションの詳細はない。

ないものだと思っていた。
昨夜、友人のKさんが教えてくれた。
五味先生のレコードコレクションの詳細をPDFにしたものが公開されている、と。
Kさんはオレフスキー(ヴァイオリニスト)について調べていたら、見つけた、とのことだった。

このPDFには、別のページからリンクされている。
五味康祐資料展示室等 情報というページがあり、
ここの下のほうに、交響曲管弦楽曲協奏曲室内楽器楽曲オペラ声楽
音楽史現代曲追加分と十のPDFへリンクがはられている。

表にまとめられている。
演奏者の表記など、統一されていないところもある。
もうすこし作りようがあった、と思うが、だからといって不満があるわけではない。
よくぞ公開してくれた、と喜んでいる。
上に書いたことはささいなことである。

五味先生のレコードコレクションをみていくと、気づくことがいくつもあるが、
それについて書くことはしない。
それぞれが気づけばいいことだからだ。

Date: 8月 6th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その9)

誰かと一時間一緒に過すと、その何倍かの時間だけ独りになる必要がある。
孤独は人間の幸福に書かせない要素だ。

グレン・グールドが、そんなことをいっていたと記憶している。
グールドが、ここでいっている人間の幸福とは、
美を知ることのような気がする。

美を知る者は孤独──、
そう捉えるのは間違いだろうか。

物分りのいい人ぶって徒党を組みたければ組めばいい。
そうやって美から遠ざかり、音をきいていればいい。