Date: 1月 14th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その2)

月刊のオーディオ雑誌といえば、
音楽之友社のステレオがある。
技術系のオーディオ雑誌としては、誠文堂新光社の無線と実験がある。
書店売りはしなくなったが、ラジオ技術もある。

月刊ステレオサウンドと書いてしまうと、
ステレオのようなイメージを思い浮べる人もいるかもしれない。
私がイメージしている月刊ステレオサウンドは、
季刊誌ステレオサウンドの弟分的な存在とか、
劣化版としての月刊誌ということでは、まったくない。

株式会社ステレオサウンドは、以前サウンドボーイという月刊誌を出していた。
このサウンドボーイも、私が考えている月刊ステレオサウンドとはまったく違う。

私がマンガを積極的に読むことは、これまでにも書いている。
マンガ雑誌は、メインとして週刊誌である。
少年ジャンプとか、少年マガジン、少年サンデー、少年チャンピオンなどがある。

これらには週刊誌のほかに、月刊誌も存在する。
月刊マガジン、月刊ジャンプなどがそうだ。

だからといって、
これらマンガ雑誌のような意味での月刊ステレオサウンドでもない。

私がいいたいのは、
マンガ雑誌におけるマンガ家と編集者との関係の深さというか強さ的なことを考えてのことだ。

マンガ雑誌では、マンガ家一人に担当編集者が必ずつく。
マンガ家と編集者との関係については、
インターネットにはいくつかの記事がある。
興味のある人は検索して読んでみてほしいし、
以前、別項で紹介した「バクマン。」というマンガも、
そのあたりのことが興味深く描かれている。

私は前々から、マンガ雑誌のような編集者のありかたが、
オーディオ雑誌ではやれないのか、と思っていた。

季刊誌ステレオサウンドのように、特集記事があって、
新製品紹介の記事があって、その他にいくつかの記事があるという状況では、
まず無理といえる。

ならばどうすればそういうことができるのか、といえば、
その答が月刊ステレオサウンドである。

Date: 1月 14th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その1)

ステレオサウンドは、3月、6月、9月、12月に出る季刊誌。
ステレオサウンドを初めて手にした中学生だったころは、三ヵ月かかって読み切っていた。

くり返し読むということもあったし、
初めて目にする単語や固有名詞もあったりして、
それに内容も、いまよりも濃かったこともあって、
オーディオの世界に足を突っ込んだばかりの中学生には、
いまのステレオサウンドのように、すぐに読み終えてしまうなんてことはなかった。

読み終えてしばらくしたら、もう次のステレオサウンドが書店に並ぶ。
そんな感じがしていた。
なので季刊誌でよかった、と思っていた。

小遣いのこともあった。
ステレオサウンドが毎月出ていたら、小遣いが不足してしまう。
当時1,600円の雑誌は安くはなかった。

一ヵ月に換算すれば500円ちょっということになるが、
他に買いたいものがいろいろある中学生に、
ステレオサウンドが毎月発売されたら、何かを犠牲にすることになったはず。

私がいたころも、編集会議という場ではなく、
雑談として、季刊誌から隔月刊へ、という話題は何度かあった。

いつの時代も、「これからはスピードの時代」的なことがいわれてきた。
あのころも、いわれていた。
だから、季刊誌ではなく隔月刊に──、
そんなことを雑談ではあっても、けっこう真面目に話していた。

ステレオサウンドが隔月刊になったら、
2月、4月、6月、8月、10月、12月に出る。

私がいたころは写植の時代だった。
いまはDTPき時代である。

一冊のステレオサウンドが仕上がるまでに必要な時間は、
試聴や取材の時間を除けば、短くなっている。
今ならば隔月刊化も無茶なことではなくなっている、と私は思う。

けれど、ここで書こうとしているのは、
隔月刊化ではなく、月刊ステレオサウンドについて、である。

隔月刊をとびこえての月刊、ということではない。
季刊誌ステレオサウンドは、もういまのままでいいと思う。
というよりも、もう変らない(良くならない)のだから、現状維持ができるのならば、
それでいいのではないか。

私が提案したいのは、ステレオサウンドと名のつく雑誌を、せうひとつ増やすことである。
季刊誌ステレオサウンドとともに、月刊ステレオサウンドを出す、ということである。

Date: 1月 14th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その2)

ラルキブデッリの録音は、ヴィヴァルテというレーベルから出ている。
このレーベルは、ソニークラシカルのオリジナル楽器専門のレーベルである。
ゆえに中世から古典派あたりまでをおもに録音している。

ヴィヴァルテの、すべての録音のプロデューサーは、ヴォルフ・エリクソンである。

クラシック音楽好きで、録音にも関心が高い人ならば、
ヴォルフ・エリクソンの名前はどこかで見たり聞いてたりしていよう。

ヴォルフ・エリクソンは、テルデック、セオン、そしてヴィヴァルテと、
つねにオリジナル楽器による演奏を録音しつづけてきている。

ラルキブデッリのCDを買ってみようかな、と思ったのも、
それがヴィヴァルテの録音であり、ヴォルフ・エリクソンによる録音だからである。
ただ、(その1)でも書いたように、
ヴィヴァルテからは、ラルキブデッリ以外の録音も当然出ている。

でも、ラルキブデッリを選んだ理由は、いまでははっきりと思い出せないし、
なんとなく選んだのだろうか。

そんな、どこか不純な好奇心から手にしたのが、ラルキブデッリのディスクであり、
モーツァルト、シューベルト、それにブラームスだった。

モーツァルトのディスクから聴いた。
次にシューベルトを聴いた。
日をおいて、ブラームスを聴いた。

ブラームスの弦楽六重奏曲ということだけでなく、
そのジャケットも好みではなかったこともあって、あとにしていた。
どんなジャケットなのかは、検索してみてほしい。

こういうジャケットが嫌い、というより、苦手である。
若いころはそうでもなかったのだが、十数年ほど前から新緑の季節になると、
植物の、その勢いにたじろぐおもいをするようになった。

濃い、というよりも、こちらが歳をとったせいなのであろう、
あまりにも青々しくて(緑が濃すぎて)、なにか植物に侵略されるのではないか、
そんな気分にすらなるし、
ラルキブデッリのブラームスのジャケットも、それに近い。

でも、聴けば、なぜ、このジャケットなのか、も理解できる。
好きにはなれないけれど。

Date: 1月 13th, 2019
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(シェルリード線試聴会・その1)

中央線・高円寺駅から徒歩数分のところにEADレコードというレコード店がある。
今日、そこでシェルリード線の試聴会が行われるのが、来ませんか、という誘いがあった。

出掛ける用事もあったし、時間も用事が済んだころからだったので、
17時からの試聴会に行ってきた。

高円寺は気が向いたら途中下車することはある。
それでも北口、南口も、阿佐谷よりのほうには行っても、
中野よりにはほとんど行ったことがないなぁ、と思いつつ、ESDレコードをめざす。

このへんを歩くのは初めてである。
EADレコードは、もう20年以上やっているそうだ。

今回試聴できるシェルリード線は、Koike Lines製のモノ。

純銀線0.1mm/7本
OFC線0.08mm/16本
OFC線0.08mm/24本
OFC線0.08mm/56本

この四種類の比較試聴会だった。

30年以上前は、シェルリード線の比較試聴はやっていたけれど、
もうとんとやっていない。

シェルリード線の長さは、
カートリッジのコイル、トーンアーム内の配線、
トーンアームの出力ケーブル、これら全体の長さからすれば、その割合は小さい。

それでも音は、その割合とはおもえないほどに変ることは、
一度でも、この部分の交換をやったことのある方ならば、経験されていよう。

今回は同じ芯線で、本数の違う三種類のシェルリード線を比較試聴できる。
こういう機会はそうないだろう。

EADレコードは、小さなレコード店けである。
そこに大型のスピーカー、大型のアンプが並んでいるわけではない。
そういうシステムを期待されている方は行かれるとがっかりされるだろう。

店の規模に見合ったシステムが置いてある。

Date: 1月 12th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスとD731(その3)

ローザ・ポンセルのCDは、ナクソスから数枚出ている。
「椿姫」もナクソスから、である。

ポンセルの「椿姫」は、ジャケットにBroadcast on 5th January, 1935と記されているように、
放送用に録音されたものので、
再生してみればわかるようにいきなり音楽から始まるのではなく、コメンタリーから始まる。

録音年代からすると、それほど音は悪くはないし、
鑑賞にたえるだけの音質ではある。

それでも、セラフィンの
「私の長い生涯に、三人の奇蹟に出会った──カルーソー、ポンセルそしてルッフォだ。この三人を除くと、あとは数人の素晴らしい歌手がいた、というにとどまる」、
アーネスト・ニューマンがカラスのコヴェント・ガーデンへのデビューの際に評した
「彼女は素晴らしい。だが、ポンセルではない」、
これらにすなおに首肯けたかというと、決してそうではなかった。

ずっと以前きいたときよりも印象はよくなっていたけれど、
それでも……、とやっぱり感じてしまうのは、ポンセルの実演に接していないからなのか。

残されている録音を聴くことしかできない聴き手にとって、
ローザ・ポンセルのすごさは感じとり難いとしかいいようがない。

1月のaudio wednesdayに19時前に来られた方は二人。
二人とも、ポンセルの歌にすごさは感じられてなかった。

ローザ・ポンセルの「椿姫」の二枚組のCDは、昨秋ディスクユニオンで買ったものだ。
新品で定価は500円となっていた。

レジに持っていくと、店員がちょっと待ってください、という。
なにかな、と思っていたら、何かのセールのようで、100円になっていた。
一枚あたり50円。
だからそれだけの価値しかない、とはいわないし、思っていない。

それでも……、ともう一度くりかえしてしまうが、
私は、おそらく死ぬまでローザ・ポンセルのすごさはわからないのかもしれない。

ローザ・ポンセルの「椿姫」を最後までかけはしなかった。
19時になったので、マリア・カラスの「椿姫」をかけた。

Date: 1月 11th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスとD731(その2)

《カラス至上のレコードは、彼女の最初の〈トスカ〉である。ほぼ二十五年経った今も、イタリア歌劇のレコード史上いぜんとしてユニークな存在を保っている。》

ウォルター・レッグは「レコードうら・おもて」でそう書いている。

カラスは、ヴィクトル・ザ・サバータ/ミラノ・スカラ座と1953年に、
その後、ステレオ時代に入ってからプレートル/パリ音楽院管弦楽団と1964年に録音している。

いまはどうなのか知らないが、1980年代までは、「トスカ」の名盤といえば、
カラスの、この二組のトスカがまず挙げられていた。

CD化されたのは、デ・サバータとのモノーラル盤のほうが先立った。
このこともウォルター・レッグのことばを裏づけていよう。

「トスカ」もかけようと考えていた。
けれど、四時間もカラスばかりかけていたにも関らず、
「トスカ」からは「歌に生き、愛に生き」だけしかかけなかった。

19時からの始まりで、最初にかけたのは「椿姫」。
EMI録音のサンティーニ/RAI交響楽団とによるものは、
カラスひとりだけ素晴らしくても……、とおもわざるをえない。

黒田先生が、以前どこかで書かれていたが、
「椿姫」のヴィオレッタの理想は、絶頂期のマリア・カラスであろうが、
それでもカラスのEMI盤は、名盤とは思えない。

なのに最初に、その「椿姫」をかけたのは、
19時の直前までかけていたのが、ローザ・ポンセルの「椿姫」だったからである。

Date: 1月 10th, 2019
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(テクニクス SL-G700)

CES 2019でテクニクスのSACDプレーヤーSL-G700が発表されたことが、
いくつかのオーディオ関係のサイトで紹介されている。

テクニクスがSACDプレーヤーを開発中なのは知られていたことなので、
特に驚きはないけれど、それでもMQAフルデコード対応なのは、意外な嬉しさである。

価格はまだ発表されていないし、音が聴けるようになるのはもう少し先のことだし、
SL-G700そのものについてあれこれ書きたいわけではない。

書きたいことはただひとつ。
Blu-Ray Audioに対応していないことである。

SACDとBlu-Ray Audioの両方に対応するのは技術的に不可能なのであればわかる。
けれど、すでにOPPOの製品は実現している。

クラシック好きにとってBlu-Ray Audioは、いまでは無視できないものになりつつある。
テクニクスの開発陣もそのことは承知のはず。
なのにSL-G700はBlu-Ray Audioに対応していない。

将来性はあまりない、という見方なのだろうか。

以前のテクニクスはSU-A2というコントロールアンプを誕生させた。
コントロールアンプとしての機能を、考えられる限りのすべてを搭載したといえる。

パナソニックは、以前AG-W3という、VHS全世界対応デッキも出していた。

私のなかでは、そういうメーカーでもある、という認識だ。
SL-G700の価格はいまのところわからない。
さほど高くないのかもしれないし、
上級機として SL-G900とかSL-G1000というモデルが出てきて、
そこでBlu-Ray Audioをふくめて、全パッケージメディア対応になるのだろうか。

Date: 1月 9th, 2019
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その28)

40年ほど前、つまり1970年代後半ごろのオーディオでは、
女性ヴォーカルの再生に向く──、そういったことが割といわれていた。

力の提示に関してはややよわいところがあるものの、
ウェットな音色で、声帯の湿り気を感じさせ、
繊細でどこか色気のある音、そして刺激的な音を出さないオーディオ機器は、
スピーカーシステムであれ、アンプであれ、カートリッジであれ、
弦やヴォーカルの再生に向く、といった評価がなされていた。

ヴォーカルだけでなく、たいてい「弦やヴォーカル」となっていたし、
こういった場合、ヴォーカルは男性歌手も含まれているわけだが、
ウェイトとしては女性ヴォーカルと受け止めてよかった、といえる。

私にとってのベストバイ特集号として初めてのステレオサウンドは43号。
43号は、読み返した。
何度も何度も暗記するほどに読んだ。

43号でベストバイとして選ばれた機種のほとんどは、当時聴いたことがなかった。
実機を見たことのあるモノも少なかった。

43号に掲載されている写真と、各筆者の文章から、
どれが女性ヴォーカルの再生にぴったりなのか、
主に、そういう視線でくり返し読んでいた。

スペンドールのBCII、QUADのESL、
ラックスのSQ38FD/II、パイオニアのExclusive M4、
オンキョーのIntegra A722nII、
これらのオーディオ機器が女性ヴォーカルを色っぽく再生してくれそうな感じだった。

ここでことわっておきたいのは、
当時の女性ヴォーカルの再生に向く、ということと、
現在の、それもメリディアンのULTRA DACが聴かせる声(歌)の素晴らしさということとは、
そうとうに次元の違ったことであり、同列に語れない、ともいえる。

あのころの女性ヴォーカルに向く、というのは、
いわば個々のオーディオ機器の個性的音色が上手く作用しての、そういうことであり、
このことは音を語る上での「音色」という言葉のもつ意味について、
じっくり書けるほどに興味深いところでもあるが、
ここではそのことに触れると先にすすめなくなるので割愛するが、
とにかく40年ほど前の、ヴォーカル再生に向く、というイメージで、
ULTRA DACの、声(歌)が素晴らしい、ということを捉えてほしくない、ということだ。

Date: 1月 8th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その4)

フツーにおいしい、とか、フツーにかわいい、とか、
そんな表現が一般的に使われるようになったのはいつからなのだろうか。

インターネットで検索すると、2008年頃には使われていたようである。
どこから広まってきたのだろうか。
テレビで、誰かが使ったからなのか、
それともまったく別のところから使われるようになったのか。

この「フツー」が生れてきた背景には、
SMAPの「世界の一つだけの花」が関係してきているようにも感じている。

歌詞に《もともと特別なOnly one》とある。
私は、この歌詞をきいて、なんとバカな……、と思った人間だ。

「世界の一つだけの花」という歌を否定する気はないし、
この歌が好きという人のことをとやかくいうつもりはない。

ただ《もともと特別なOnly one》には、反撥したい。
歌詞の、この部分に救われた、とうい人がいるという話もきいている。

本当だろうか、と訝るとともに、本当にそういう世の中になってきたのか……、とも思う。

私は、ここでも、マーク・トウェインの、別の言葉を思い出す。

“The two most important days in your life are the day you are born and the day you find out why.”
あなたの人生で最も重要な二つの日は、あなたが誕生した日と、なぜ生れてきたかを見出した日である。

《もともと特別なOnly one》は、
重要な二つの日のうちのひとつだけの世界にしか思えない。
なぜ生れてきたかを見出してこそ、オンリーワンのはすなのに、
ただ誕生してきた日、その一つの日だけで《もともと特別なOnly one》とは、
どうやってもそうは思えない。

Date: 1月 8th, 2019
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その19)

取材・試聴が大変だった号がよく売れ、
そうでない号はあまり売れないのであれば、話は違ってこよう。

けれど現実は必ずしもそうではない。
その17)で書いているように、
二冊のチューナー特集号の取材・試聴は大変だったはず。
けれど売れない。

チューナー特集号のころは、すでにFM放送がブームになっていた時期のはず。
それでも売れなかったのは、不思議な気もする。
ステレオサウンドの読者は、あまりチューナーに関心がなかったのか。
そのくらいしか理由は思い浮かばない。

そのころの原田勲氏は、
株式会社ステレオサウンドの社長(経営者)であり、
季刊誌ステレオサウンドの編集長であった。

編集者としてやるだけのことはやった、と自負できる号が売れていれば、
社長としての原田勲と編集長としての原田勲は仲良くできただろうが、
現実はそうでもなかった。

雑誌は売れ残れば返本される。
前の号の売行きが芳しくないと、書店に置かれる数にも影響してくる。

それに返本された分に関しても、保管して置くためのスペースが要り、
それには費用も発生するし、売れなかった本とはいえ、それは資産として扱われる。

だから裁断処分されることになる。
これにも費用がかかる。

売行きは安定してほしい。
経営者は誰もがそう考えるはずだ。

そのためにどうするか。

ここまで書けば十分だろう。
つまりステレオサウンドを変えてしまったのは、
特集の内容によって買ったり買わなかったりしていた読者でもある。

Date: 1月 8th, 2019
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その18)

原田勲氏から直接きいたはなしでは、
チューナーの特集号は芳しくなかった、ということと、
不思議なことにトーンアーム、カートリッジが表紙だと、
これもあまり売れない、ということだった。

例えばアンプを買い替えようと考えているオーディオマニアがいたとする。
そこにステレオサウンドの特集がアンプの総テストであったりすると、
そのオーディオマニアは、なんとタイミングがいい、と喜んで、
そのステレオサウンドを買うことだろう。

アンプの買い替えを考えているオーディオマニアに、
チューナーの特集号を渡しても、関心をもってもらえないこともあるだろう。

でも、ステレオサウンドのようなオーディオ雑誌の読み方は、そういうものではないはず。
そう思っていたからこそ、私は中学二年のころから、なんとか小遣いをやりくりしては毎号買っていた。

ステレオサウンドを読みはじめたばかりの中学生にとって、
43号のベストバイは、確かに面白い特集だった。
世の中には、こんなにも多くのスピーカー、アンプ、カートリッジ、プレーヤーがあるのか、
そのことを知ることができただけでも、43号のベストバイの価値はあった。

それに43号のベストバイのやり方は、これまででいちばん良かった。
結局、その後のベストバイは編集経験者からみれば、手抜きでしかない。

43号のあとは、44号、45号、46号と三号続けてのスピーカーの特集である。
ある意味、おなかいっぱいの特集である。
読み応えがあった。

スピーカーの買い替えなどまったく検討していなかった中学生であっても、
無関係な特集とは、まったく思わなかった。

アンプの買い替えを検討しているオーディオマニアで、
チューナーの特集号、スピーカーの特集号だったら買わない、というのは、
その人はステレオサウンドをお買い物ガイドとしかみていないわけだ。

そういう人にはベストバイの号はぴったりだし、
ベストバイの号が売れるのも理解できなくはない。

それでも、ステレオサウンドは、そういうオーディオ雑誌ではないはずだ、
と当時は思っていたが、現実は売行きが変動するわけで、
だからこそ、原田勲氏が、ステレオサウンドを弁当にたとえて、
幕の内弁当でなければ、というのは、株式会社ステレオサウンドの経営者としては、
当然の帰結なのだろう。

Date: 1月 7th, 2019
Cate: ディスク/ブック

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR(その1)

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR
昨年秋に出たCDであり、
タイトルからわかるように、マリア・カラスのホログラムコンサートのCDである。

BASE HOLOGRAM社の技術によるマリア・カラスのホログラムコンサート。
昨年秋から全世界ツアーが始まっている。

日本でも予定されているそうで、2019年初頭という話だったが、
検索してみても、具体的な日程はどこにもない。

BASE HOLOGRAM社のウェブサイトには、マリア・カラスのページがある。
2月と3月の予定が公開されているが、現時点で日本公演は含まれていない。

日本でほんとうにやるのかどうかも、すこしばかりあやしい気もするけれど、
それにホログラムコンサートでのカラスの歌声は、
EMIに残した録音からカラスの声のみを抽出して、オーケストラとの協演である。

そういうものを観に行く価値はあるのか、と思わないでもないが、
行きたいという気持も、けっこう強い。

Date: 1月 7th, 2019
Cate: audio wednesday

audio wednesdayのこと(その4)

audio wednesdayで音を鳴らすようになって三年経つ。
音出しは面倒と思うこともないわけではないが、やはり楽しい。

来られている人たちも楽しまれている。
けれど、音を鳴らすのもいいけれど、
以前のようにあれこれ話すのも楽しかった、という声もある。

facebookでのコメントを読んでいて、思いついたことがある。
若いオーディオマニアの方と徹底討論をやってみたい、と思っている。

一対一でもいいし、
若い方が数人対私一人でもいい。

若いオーディオマニアといっても、
ひとまわり若い人、ふたまわり以上若い人たちが来てくれれば、いいな、と思う。

私がオーディオに興味ももってから40年以上が経つ。
オーディオブームといわれていた時代はとっくに過ぎ去ってしまった。

私が熱心に読んでいたオーディオ評論家の人たちもみないなくなってしまった。
いくつものオーディオ雑誌も消えていっていったし、
残っているオーディオ雑誌も変ってしまった。

オーディオ店の数も減っている。
いろんなことが変化している。

それでもオーディオの世界に興味をもつ若い人がいる。
そういう人たちがどう感じているのかを知るには、
直接声をきくのがいちばんではないだろうか。

一人では話しにくいことも、若い人たちが数人集まれば違ってくるかもしれない。

audio wednesdayの常連の大半は、私と同世代かそれ以上の世代の人たちである。
それでもズレのようなものを感じることがある。

世代がもっと違う人たちとならば──、
若いオーディオマニアの方たちを集めるのが意外と大変かもしれないが、
やってみたい企画である。

Date: 1月 6th, 2019
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(ピストニックモーションにまつわる幻想・その3)

1976年にサンスイのスピーカーシステムSP-G300が登場した。
スラントプレートの音響レンズをもつ2ウェイであった。

当時の山水電気はJBLの輸入元であった。
SP-G300はJBLのスピーカーの影響を受けた製品ともいえた。

SP-G300は国産スピーカーとしては異例の長期的計画によって誕生したモノであった。
SP-G300の詳しい開発に関することは、
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のサンスイ号に載っている。

SP-G300のコンプレッションドライバーのダイアフラムのは、
当初はタンジェンシャルエッジだった。

けれどテストと測定の結果、
タンジェンシャルエッジはだいあふらむの前後運動にともない回転運動を起こしている確認。
最終的にSP-G300はロールエッジに変更されて世に出ている。

タンジェンシャルエッジがもつ、形状からくる回転運動の発生については、
JBLも気づいていたのかもしれないし、
もしくは山水電気からの指摘があったのかもしれない。

JBLは1980年にダイアモンドエッジを発表した。
タンジェンシャルエッジの2420は2421になり、
ロールエッジの2440は2441になった。

ダイアモンドエッジは、日本の折り紙からヒントを得た、といわれていた。
そうかもしれない。
タンジェンシャルエッジを、アルテックのエッジの向きとJBLのエッジの向き、
このふたつを合体させたものがダイアモンドエッジのようにも、当時は見えた。

ダイアモンドエッジは高域特性の改善がまず謳われたが、
むしろタンジェンシャルエッジにつきもののダイアフラムの回転運動が発生しないことのほうが、
より大きな改善点である。

Date: 1月 6th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その2)

続きを書く予定は最初はなかったけれど、
そういえば「レコード・トライアングル」にカラスの章があったことを思い出した。

黒田先生は、マリア・カラスの章に「声だけで女をみせる:マリア・カラス」とつけられている。
     *
 いまふりかえってみて気がつくのはカラスのレコードを全曲盤にしろ、アリア集のレコードにしろ、たのしみのためだけにきいたとはいえないということである。そのときはなるほどたのしみのためにきいたのかもしれなかったが、結果としてさまざまなことを勉強したにちがいなかった。なにを勉強したのかといえば、オペラとはなにか?——ということであった。オペラとは音楽であり同時にドラマでもあるとういことを、カラスのうたうノルマやルチアの〈トロヴァトーレ〉のレオノーラをきいてわかった。
 そのことを別の面から教えてくれたのがトスカニーニであった。なるほどオペラとはこういうものであったのか——といった感じで、トスカニーニによってオペラに対しての目をひらかれた。はじめてカラスの〈ノルマ〉をきいた当時のぼくはききてとして、完全にトスカニーニの影響下にあった。
 そういうかたよったきき方をあらためるのに、カラスのレコードはまことに有効であった。
 あれこれさまざまなカラスのレコードをきいているうちに見えてくるものがあった。レコードが与えてくれるのはたしかに聴覚的なよろこびだけである。いかに目を凝らしてもなにも見えない。レコードでできるのはきくことだけのはずである。ところがカラスのレコードをきいていたら、悲しむノルマの表情が、怒るノルマの頬のひきつりが、見えてきた。それをも演技というべきかどうか。カラスによってうたわれた場合には、ノルマなり、ルチアなり、レオノーラなり、つまりひとりの女を、音だけで実感することができた。
 それはむろん信じがたいことであった。しかしそれは信じざるをえない事実でもあった。
 カラスのレコードをきくということは、そこでカラスが受けもっている役柄を、ひとりの生きた人間として実感することであった。オペラのヒロインには、中期のヴェルディ以後の作品でのものならともかく、その描き方に少なからずステロ・タイプなところがある。そういう役柄は、うたわれ方によってはお人形さんの域を出ない。しかしそのことをもともと知っていたわけではなかった。
 ルチアにしろ、〈夢遊病の女〉のアミーナにしろ、〈清教徒〉のエルヴィーラにしろ、幸か不幸かまずカラスのうたったレコードできいた。そういう役柄がひとつ間違うとお人形さんになってしまうということを、後で別のソプラノがうたったものをきいて知った。たとえば、カラスのうたったアミーナとタリアヴィーニがエルヴィーノをうたったチェトラの全曲盤でのリナ・パリウギのアミーナとでは、なんと違っていたことか。カラスのアミーナには人間の体温が感じられたが、パリウギのアミーナは美しくはあったがお人形さんの可憐さにとどまった。
 さまざまなレコードをきいたり、実際に舞台で上演されたものに接したりしているうちに、やはり人並みにオペラのたのしみ方のこつをおぼえてきた。その結果、ますますカラスのオペラ歌手としての尋常でなさがわかってきた。
(中略)
 オペラを好きになりはじめた頃からずっと、マリア・カラスはもっとも気になるオペラ歌手であった。はじめはなんと変わった声であろうと思い、この人がうたうとなんでこんなに生々しいのであろうと考え、つまりカラスは大きな疑問符であった。その大きな疑問符にいざなわれて、オペラの森に分け入ったのかもしれなかった。
 ぼくはカラスの熱烈なファンであったろうか?——と自問してみて、気づくことがある。かならずしも熱烈なファンではなかったかもしれない。しかしカラスによって、より一層オペラをたのしめるようになったということはいえそうである。マリア・カラスは、ぼくにとって、オペラの先生であった。カラスによっていかに多くのことを教えられたか数えあげることさえできない。
 しかしカラスの他界によってカラス学級が閉鎖したわけではない。決して充分とはいえないが、それでもかなりの数のレコードが残っている。これからもオペラとはなんであろう? という、相変わらず解けない疑問をかかえて、カラスのレコードをききつづけていくにちがいない。
     *
黒田先生の文章を読んで、
マリア・カラスは、また違う意味での「古典」でもある、と思っているところだ。