「理由」(その21)
ここで大事なのはカラヤンの音楽に感情があるかないか、ではなく、
感情が立ち止まったまま動かない、という表現である。
動かない感情こそ、黒(青)く、どろどろしたものではなかろうか。
立ち止まることなく動いていけば、感情は感性へと昇華されるかは、いまのところよくわからないし、
はっきりそうだとはいえないけれど、なにかつながっている予感ははっきりとある。
なぜ五味先生がカラヤンの演奏を毛嫌いされ(初期の演奏をのぞいて)、
フルトヴェングラーの演奏を聴き続けてこられたのか、
その答えのヒントとなるものが、このあたりにあるのではなかろうか。
五味先生は、カラヤンの音楽では浄化されなかった。
このことを徹底的に考えないで、音楽における「浄化」について、なにが語れるというのか。