「理由」(その20)
私のTwitterをご覧になっている方はお気づきだろうが、
(その17)で「浄化」について、6月15日のTwitterでも書いている。
そのとき川崎先生からの返事は次のことだった。
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音楽は「感性的」なものであり、決して「感情的」ではないと思うのです。
なぜなら、感情の「情」とは古代中国においてこころの中に黒=青、
どろどろしたものが流れ込んでくることを原意だったからでしょう。
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これに対する私の返事は下記のとおりだ。
音楽は「感性的」なもの。オーディオを通して、その「感性的な」音楽を聴くときに、
スピーカーには「感情」を、私は、いまは求めようとしています。
スピーカーに「感情」を求めることが正しいことなのかどうかは、
いまのところはっきりした答えは出せないでいる。
それでも、とにかくいまは、はっきり感情を表す鳴らし方が、私には必要だと感じているからだ。
そして今日、あることばと出合った。
「音楽において一番大切なのは、感情を表現することです。感情のない音楽は、音楽ではない。カラヤンの音楽では、感情は立ち止まったまま動かない」
(「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」 川口マーン惠美・著 新潮選書より)
ベルリン・フィルの元ティンパニー奏者だったヴェルナー・テーリヒェン氏が、そう語っている。