「理由」(その27)
この項の(その25)ではインドの古典「バカヴァッド・ギーター」の一節、
「真の自己にとって浄化された自己は友であるが、浄化されていない自己は敵である」を、
(その26)ではシモーヌ・ヴェイユの「純粋さとは、汚れをじっとみつめる力」を、引用した。
浄化されていない自己が敵であるのならば、
「音は人なり」をオーディオの真理と信じている私にとっては、
スピーカーから、浄化されていない自分が音として出てくる、と考えることもできる。
つまりその音は敵ということになる。
それを聴く(耳をすます)力が、求められる音楽とそうでない音楽とあるような気がする。
その力が求められる音楽を聴く、という行為は、音と対決する、ということではないのか。
音楽に涙したから、といって浄化された、と思えるほど、そこまでおめでたくはない。
結局、対決しなければ、と思う。