オーディオにとって真の科学とは(その5)
(その4)に対して、facebookでコメントがあった。
(その4)で書いたような人たちを相手にすることはない、というものだった。
同じことは、以前も別の人にいわれたことがある。
七年前、「オーディオの科学」について少し書いたことがある。
そのことに腹を立てたと思われる人(どん吉というハンドルネームだった)から、
コメントというよりもいちゃもんをつけられた。
その時も、「あの程度のレベルの人を相手にすることはない」といわれた。
そうかもしれない──、とは思っていない。
こういう人たちがいるからこその弊害がある。
観察力がないから、
いままでの知識だけで音を判断してしまう。
ここでの観察力とは、音を聴き分ける能力のことである。
この種の人たちの不思議なのは、
自分たちにできないことは他の人もできないと思っている節がある。
なぜそう思うのか。
人には得手不得手がある。
能力の違いがある。
多くの人がわかっていることを理解できない人たちのようだ。
自分の耳では聴き分けられないから、
ケーブルでの音の違いなどない、という結論にもっていく。
その人が聴き分けられなくても、聴き分けられる人はいるという事実を、
どうも認めたくないようである。
例えば100m走。
オリンピックに出る選手たちは10秒を切る速さで走る。
100mを10秒を切ることは、大半の人には無理なことである。
だから、すごいと思う。
自分にできないことだから、100mを10秒前後で走るのは、
何かトリックがある、オカルトだ、などというバカなことは思わない。
音のこまかな聴き分けも、同じことである。
すべての人の音に対する能力が同じなわけがない。
速く走れる人もいれば、高くジャンプできる人もいるし、
速く泳げる人もいる。
味覚や嗅覚でも、それを仕事としているプロフェッショナルがいる。
ケーブルで音など変らないと頑なに主張する人でも、
味覚や嗅覚のプロフェッショナルがいて、
そういう人たちの味覚、嗅覚と自分の味覚、嗅覚が同じレベルであるとは思っていないであろう。
なのになぜか聴覚だけは違うようだ。
聴覚検査で問題がなければ、音の聴き分け能力まで同じだと考えているのだろうか。
REPLY))
100mを9秒台で走れる人がいるように、「ケーブルで音が変わる」のを聴き取れる人は、おそらく百人に一人か千人に一人かの割合で存在するだろうと思います。しかし、「ケーブルで音が変わる」ことがオーディオ装置を論じる上で見落とせない要素であると主張したいのであれば、
1. 事象が存在しないこと(消極的事実)の証明は大変困難なので、存在を主張する側が証明するというのが、議論をするときの一般的なルールであると考えられること(宇宙人がいないことの証明は実際上できません)。
2. 自己の能力が他人よりも優れていることを主張する場合、優れていると主張する側が説明を尽くすのが礼儀であると考えられること(お前は劣っていると言われる身になってみればわかります)。
以上の二つの観点から、「ケーブルで音が変わる」と主張する立場の方が、証明とまではいかなくてもそれなりに筋の通った説明をつける努力をすべきでしょう。それをしないで「ケーブルで音が変わることはない」と主張する人々を非難するのは、たとえその人々の言説がどんなに低レベルであったとしても、いわゆる逆ギレのように思われます。