オーディオにとって真の科学とは(その7)
(その5)で「あの程度のレベルの人を相手にすることはない」と書いた。
どういう考えで「あの程度のレベルの人」と言ったのかは聞いていない。
けれど私は「あの程度のレベルの人」とは、
己の耳を鍛えることから逃げて、
それでは己のプライドが傷つくのか、ケーブルでは音は変らない、という人のことである。
音の聴き分けにも得手不得手はある。
それはオーディオ仲間といっしょに音を聴いていれば実感することのはずだ。
あるところに敏感に違いを聴き分ける人でも、
別のところでは意外にもそうでなかったりする。
それにオーディオマニアの誰もが、わずかな音の違いまで聴き分けることはない。
例えば誰かをあるシステムをセッティングして、チューニングしていく。
その過程をいっしょに聴く。
何をやっているのかはわからないところもあるだろうし、
それによる音の変化も、聴き分けられるところもあれば、そうでないところもある。
それでも最初に鳴っていた音と、
数時間後に鳴っている音の違いがわかれば、オーディオは趣味として楽しめる。
私はケーブルの違いはあまりわからないという人を揶揄したいわけではない。
ケーブルの違いがあまりわからなくてとも、音を良くしていくことはできる。
(その6)で書いた、評価軸がその度にブレてしまうことがなければ、音は良くしていける。
私がオーディオに弊害をもたらしている、と捉えているのは、
己の耳を鍛えることから逃げて、安易な道を選び、
けれど己のプライドだけはしっかりと守りたい、という人のことだ。
そういう人が「オーディオは科学だ」という。
何度でも書くが、科学であれば観察力が問われる。
オーディオにおける観察力とは耳の能力のことだ。
これは高域が20kHzまで聞こえる、といったことではない。
そして大事なのは、
オーディオを科学として捉えるには観察力、
その己の観察力を冷静に観察し、得手不得手を把握する観察力である。