オーディオにとって真の科学とは(その8)
このテーマについて書いていて、ふと思い出したのが、
瀬川先生が以前書かれたものだ。
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オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人が多い。そして、そのためのパーツは工業製品であり電子工学や音響学の、つまり科学の産物なのだから、そこには主観とか好みを入れるべきではない。仮に好みが入るとしても、それ以前に、客観的な良否の基準というものははっきりとあるはずだ……。こういうような考え方は、一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている。
けれど、オーディオ装置を通じてレコードを(音楽を)楽しむということは、畢竟、現実の製品の中からパーツを選び組合わせて、自分自身が想い描いた原音のイメージにいかに近づくかというひとつの創造行為だと、私は思う。いや、永いオーディオ歴の中でそう思うようになってきた。客観的な原音というものなどしょせん存在しない。原音などという怪しげなしかしもっともらしい言葉にまどわされると、かえって目標を見失う。
(ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」まえがき より)
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1979年においても、「いまでも」とある。
ここからすでに38年が経っているが、この「いまでも」はそのままといえる。
《オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人》、
そういう人が、もしかするとケーブルでは音は変らない、
そんなことで音は変化しない、それらはすべてオカルトだ、
と決めつけている人と重なってしまう。
ケーブルで音は変らない、という人のすべてが
「究極の理想とは、原音の再生」と固く信じ込んでいるわけではないと思うし、
原音再生こそ理想と信じ込んでいる人のすべてが、
ケーブルで音は変らない、といっているわけでもないだろうが、
両者には、客観的な良否の基準、客観的な原音、主観の排除といった、
《一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている》考え方が根底に共通している──、
私にはそう感じられてしまう。
《怪しげなしかしもっともらしい言葉》、
それは時として数字であったりする。