Date: 3月 28th, 2015
Cate: 老い
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老いとオーディオ(音がわかるということ・その1)

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号に、
瀬川先生が「私とタンノイ」を書かれている。
その冒頭に、次のように書かれている。
     *
 日本酒やウイスキィの味が、何となく「わかる」ような気に、ようやく近頃なってきた。そう、ある友人に話をしたら、それが齢をとったということさ、と一言で片づけられた。なるほど、若い頃はただもう、飲むという行為に没入しているだけで、酒の量が次第に減ってくるにつれて、ようやく、その微妙な味わいの違いを楽しむ余裕ができる――といえば聞こえはいいがその実、もはや量を過ごすほどの体力が失われかけているからこそ、仕方なしに味そのものに注意が向けられるようになる――のだそうだ。実をいえばこれはもう三年ほど前の話なのだが、つい先夜のこと、連れて行かれた小さな、しかしとても気持の良い小料理屋で、品書に出ている四つの銘柄とも初めて目にする酒だったので、試みに銚子の代るたびに酒を変えてもらったところ、酒の違いが何とも微妙によくわかった気がして、ふと、先の友人の話が頭に浮かんで、そうか、俺はまた齢をとったのか、と、変に淋しいような妙な気分に襲われた。それにしても、あの晩の、「窓の梅」という名の佐賀の酒は、さっぱりした口あたりで、なかなかのものだった。

 レコードを聴きはじめたのは、酒を飲みはじめたのよりもはるかに古い。だが、味にしても音色にしても、それがほんとうに「わかる」というのは、年季の長さではなく、結局のところ、若さを失った故に酒の味がわかってくると同じような、ある年齢に達することが必要なのではないのだろうか。いまになってそんな気がしてくる。つまり、酒の味が何となくわかるような気がしてきたと同じその頃以前に、果して、本当の意味で自分に音がわかっていたのだろうか、ということを、いまにして思う。むろん、長いこと音を聴き分ける訓練を重ねてきた。周波数レインジの広さや、その帯域の中での音のバランスや音色のつながりや、ひずみの多少や……を聴き分ける訓練は積んできた。けれど、それはいわば酒のアルコール度数を判定するのに似て、耳を測定器のように働かせていたにすぎないのではなかったか。音の味わい、そのニュアンスの微妙さや美しさを、ほんとうの意味で聴きとっていなかったのではないか。それだからこそ、ブラインドテストや環境の変化で簡単にひっかかるような失敗をしてきたのではないか。そういうことに気づかずに、メーカーのエンジニアに向かって、あなたがたは耳を測定器的に働かせるから本当の音がわからないのではないか、などと、もったいぶって説教していた自分が、全く恥ずかしいような気になっている。
     *
「世界のオーディオ」タンノイ号は1979年春に出ているから、この時瀬川先生は46歳。
私が「私とタンノイ」を読んだのは16歳。
そういうものかと思いながら読んでいた。
老いていく、ということがどういうことなのか、
頭でどんなに想像してもまったく実感がわく年齢ではなかったのだから、
そういうものか……、で留まってしまう。

けれど40を過ぎたころから、同じように考えるようになっていたことに気づき、
この「私とタンノイ」の冒頭を思い出すようになっていた。

以前も書いているけれど、齢を重ねなければ出せない音があることに気づいたのも、40ぐらいだった。
齢を重ねなければ出せない音があるのは、結局のところ、音が「わかる」ようになるのに、
ある年齢に達することが必要になるからだ、とも思うようになってきた。

そしてもうひとつ気づいたことがある。
音の違いがわかる、ということが、音が「わかる」ことではないということだ。

このことに気づくのに30年以上かかってしまった。

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