Date: 7月 31st, 2017
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おもいだした文章

7月22日の川崎先生のブログ「知人、友人、親友、いや話相手としての別感覚の友」、
読んでいてふと思い出した文章がある。

黒田先生が1970年の終りに書かれたもの、
レコード藝術別冊「ステレオのすべて──1971」に載っている文章を、
読んでいて思い出していた。
     *
 悲しいのは誰だって同じだ。肝心なのはその悲しみをうたえるかどうかではないのか。ビリー・ストレイホーンがデューク・エリントンにとっていかにかけがえのない男だったかは、少しでもエリントンの仕事ぶりを見てきた人なら判るはずだ。協力者などという安っぽい、計算のかった間柄ではなかった。デューク・エリントンはビリー・ストレイホーンによってデューク・エリントンたりえていた部分があった。誰にもましてエリントンが、それを知っていたにちがいない。ストレイホーンにめぐりあえた幸せと、彼を失った悲しみを、エリントンが、このアルバムでうたっている。
 かけがえのない人を失うというのは、きっと誰にでもあることだろう。すくなくともひとりきりで生きられる強い人をのぞいては。ぼくにもあった。なにをはなしあったというのではない。なにか人にできないようなことをしたというものでもない。でも、ある時、なんの前ぶれもなくこの世の人間でなくなってしまったぼくの友人は、いなくなるということで、ぼくの中での彼の存在の大きさをぼくに教えた。
 A面の六曲、B面の5極がビッグ・バンドで演奏された後、人びとのざわめきをバックに、エリントンがピアノをひきはじめる。ストレイホーンの作品「蓮の花」だ。ざわめきはしずまり、エリントンのピアノがつづく。これは、エリントンだけにうたえた、ストレイホーンへの告別の歌ではないのか。
 悲しみをうたえることへのねたましさを、その時ほど感じたことはなかった。ぼくは、ぼくをおきざりにした友人に、なにがうたえたというのだ。心の中にできた空洞をもてあましているときにきいた、エリントンの、ストレイホーンへの告別の歌は、その切実さによって、たえがたかった。
 少しもしめっていない。あるとすればそれは、青い空のさびしさだ。男から男にだけ通じる抒情。しかしエリントンはその伝達の手段をもっていた。彼は音楽家だった。ピアノでうたうことができた。おそらくこの「蓮の花」、レコードにおさめることを意識して演奏されたのではないだろう。つまり、エリントンのつぶやき。つぶやきが歌になり、その歌には、なつかしい人を見やるやさしい目が感じられる。
     *
どのレコードなのかは、書く必要はないだろう。

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