スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(その1)
伊藤喜多男先生のことば──
スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。
ステレオサウンド 72号に載っている。
記事ではなく、上弦(かみげん、と読む。シーメンス音響機器調進所)の広告に載っている。
72号は1984年の秋号。
私はシーメンスのコアキシャル・ユニットを平面バッフルにつけて聴いていた。
それもあって、この伊藤先生のことばは印象深く残っていて、今日ふいに思い出してしまった。
1984年9月に、この上弦の広告をみたときは、ふかく首肯いた。
首肯きはしたものの、それほど実体験としてふかく理解していたわけではかった。
頭だけでなく実感をともなうものとしてふかく理解できるようになるには、それだけの年月がどうしても必要だった。
「スピーカーを選ぶなどとは思い上り」と「スピーカーの方が選ぶ人を試して」いる、
このふたつのことのうち「スピーカーの方が選ぶ人を試して」いることの方が、
若いときに実感できていた。
それはステレオサウンドで働くことが出来ていたからでもある。
本当の意味での使いこなしは、スピーカーに試されているところが実に多い、と感じていたからだ。
だから、私にとってより時間が必要だったのは、「スピーカーを選ぶなどとは思い上り」のほうだった。
スピーカーを何を使うかは、つまりは何を買うか、でもある。
買うためには、それだけのお金が必要でそのお金を出すのは、
たいていの場合、そのスピーカーを欲している本人である。
スピーカーは決して安い買物ではない。
値段の幅は広い。相当に高価なスピーカーもある。
それにすでに製造中止になっていて、程度のいいモノの入手がきわめて困難な場合だってある。
だから場合によっては、ほんとうに欲しいスピーカーをあきらめなければならないこともある。
もしくは先延ばしにするときだってある。
そういうときでも、私たちはスピーカーを、何か選ぶ。
これは主体的な行為であって、やはりスピーカーは選ぶものという気持が、1984年当時の私にはあった。